コロサイ書を考える(第2章)

 聖書からの引用は、口語訳からのもの。田川建三訳、尾山令仁訳の二つの訳は好対照で読み比べている。

*コロサイ書の特徴は、旧約聖書からの引用がないことだ。旧約そのものに興味がなかったのだろう。


1)わたしが、あなたがたとラオデキヤにいる人たちのため、また、直接にはまだ会ったことのない人々のために、どんなに苦闘しているか、わかってもらいたい。

2)それは彼らが、心を励まされ、愛によって結び合わされ、豊かな理解力を十分に与えられ、神の奥義なるキリストを知るに至るためである。

3)キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。

*キリストが語ったこと、行ったこと、それがすべてだと言っている。

4)わたしがこう言うのは、あなたがたが、だれにも巧みな言葉で迷わされることのないためである。

*あれこれ言って惑わす人たちがいたのだろう。

5)たとい、わたしは肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたと一緒にいて、あなたがたの秩序正しい様子とキリストに対するあなたがたの強固な信仰とを見て、喜んでいる。

6)このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい。

7)また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように、信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい。

*イエスに対する信仰は、人間を超えたもので、その信仰によって個々の人間が確立される関係にあると言うことか。

8)あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えに基くものにすぎない。

9)キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、

10)そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。彼はすべての支配と権威とのかしらであり、

11)あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのである。

*イエスの神聖の力によって、肉体の問題を解決させたと言うことか。

12)あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。

*洗礼の力によってもうすでによみがえっていると言うことか。

13)あなたがたは、先には罪の中にあり、かつ肉の割礼がないままで死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった。

*ユダヤ教の律法なんか関係ないということか。

14)神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。

*イエスの十字架の死によって人類の罪の証書はなくなったということか。

15)そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

16)だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない。

*食べ物や飲み物について、あれこれ言って惑わすやつは間違っているということだ。

17)これらは、きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある。

18)あなたがたは、わざとらしい謙そんと天使礼拝とにおぼれている人々から、いろいろと悪評されてはならない。彼らは幻を見たことを重んじ、肉の思いによっていたずらに誇るだけで、

19)キリストなるかしらに、しっかりと着くことをしない。このかしらから出て、からだ全体は、節と節、筋と筋とによって強められ結び合わされ、神に育てられて成長していくのである。

*知ったような顔をして宗教的な敬虔さを売り物にする者を信用するな、気をつけよということか。今で言うところのモルモン教徒のことだね。


20)もしあなたがたが、キリストと共に死んで世のもろもろの霊力から離れたのなら、なぜ、なおこの世に生きているもののように、

21)「さわるな、味わうな、触れるな」などという規定に縛られているのか。

22)これらは皆、使えば尽きてしまうもの、人間の規定や教によっているものである。

23)これらのことは、ひとりよがりの礼拝とわざとらしい謙そんと、からだの苦行とをともなうので、知恵のあるしわざらしく見えるが、実は、ほしいままな肉欲を防ぐのに、なんの役にも立つものではない。

*礼拝好み、敬虔好みを自慢する者に対する批判だね。


  (第1章へ)   (第3章へ)