聖霊をどう考えるか

  2016.7.24 年間第17主日
 *聖書引用は口語訳から

 聖霊をどのように考えるかということだが、それぞれの箇所により、ずいぶん違う。どれが本当かということだが、読者の判断に任されるということだろう。

*ルカ福音書11章9節ー13節
9 そこでわたしはあなたがたに言う。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
10 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。
11 あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。
12 卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。
13 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。

 ルカ福音書のこの箇所、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」というイエスの名言からはじまる。天の父は、求めてくる者には聖霊を与えてくださるとイエスは断言されている。聖霊を求める者全員に与えられるというわけだ。

*使徒行伝2章37節ー39節
37 人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った。
38 すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。
39 この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」。

使徒行伝には、聖霊が多く登場するが、ペテロの発言ではこうなっている。洗礼を受ければ聖霊の賜物を受け取ることができるというわけだ。逆に言えば、洗礼なしでは聖霊の賜物を受け取ることはできないというわけだ。

*使徒行伝10章44節ー48節
44 ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。
45 割礼を受けている信者で、ペテロについてきた人たちは、異邦人たちにも聖霊の賜物が注がれたのを見て、驚いた。
46 それは、彼らが異言を語って神をさんびしているのを聞いたからである。そこで、ペテロが言い出した、
47 「この人たちがわたしたちと同じように聖霊を受けたからには、彼らに水でバプテスマを授けるのを、だれがこばみ得ようか」。
48 こう言って、ペテロはその人々に命じて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けさせた。それから、彼らはペテロに願って、なお数日のあいだ滞在してもらった。

 使徒行伝のこの部分を読むと、まだ信者でない者にも聖霊が下り、異言を語ったり神を賛美することが書かれている。先に聖霊が下ったわけだ。ペテロは聖霊が下ったから、洗礼を受けよと言っている。
 洗礼を受けたら聖霊が下るのか、聖霊が下ったから洗礼を受けるのか、いったいどちらなのだ。どっちもありということか。

*使徒行伝8章11節ー17節
12 ところが、ピリポが神の国とイエス・キリストの名について宣べ伝えるに及んで、男も女も信じて、ぞくぞくとバプテスマを受けた。
13 シモン自身も信じて、バプテスマを受け、それから、引きつづきピリポについて行った。そして、数々のしるしやめざましい奇跡が行われるのを見て、驚いていた。
14 エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が、神の言を受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネとを、そこにつかわした。
15 ふたりはサマリヤに下って行って、みんなが聖霊を受けるようにと、彼らのために祈った。
16 それは、彼らはただ主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだだれにも下っていなかったからである。
17 そこで、ふたりが手を彼らの上においたところ、彼らは聖霊を受けた。

 使徒行伝のこの部分を読むと、福音宣教者のフィリポ(ピリポ)が行った洗礼では、聖霊を受けることができず、12使徒のペテロとヨハネによる手かざしがなければ聖霊を与えることができなかったと書かれている。聖霊を与えることができる弟子と、与えることができない弟子がいるというわけだ。

*使徒行伝19章1節−7節
1 アポロがコリントにいた時、パウロは奥地をとおってエペソにきた。そして、ある弟子たちに出会って、
2 彼らに「あなたがたは、信仰にはいった時に、聖霊を受けたのか」と尋ねたところ、「いいえ、聖霊なるものがあることさえ、聞いたことがありません」と答えた。
3 「では、だれの名によってバプテスマを受けたのか」と彼がきくと、彼らは「ヨハネの名によるバプテスマを受けました」と答えた。
4 そこで、パウロが言った、「ヨハネは悔改めのバプテスマを授けたが、それによって、自分のあとに来るかた、すなわち、イエスを信じるように、人々に勧めたのである」。
5 人々はこれを聞いて、主イエスの名によるバプテスマを受けた。
6 そして、パウロが彼らの上に手をおくと、聖霊が彼らにくだり、それから彼らは異言を語ったり、預言をしたりし出した。
7 その人たちはみんなで十二人ほどであった。

 聖霊が下るのには、イエスの名による洗礼とパウロによる手かざしが必要というわけだ。12使徒ではないけれどパウロならできたというわけだ。

 聖霊が下ると、異言を語ったり、預言をしたりできるようになるわけだが。逆に言えば、異言を語ったり預言ができれば聖霊が下っているということにもなる。
 聖霊が下るということは、いわば神との一体化ができるということだ。父と子と聖霊は三位一体というわけだから、聖霊が下った人間は神と一体化したということか。
 うーん、なんかすごいことになってきたようだ。