ペトロの信仰宣言について考える
  2015年8月23日 年間第21主日
 ヨハネ福音書第6章60節から71節

 田川訳と新共同訳、フランシスコ会訳を参考。引用は口語訳聖書から。

*52節から59節までは、フランシスコ会訳では「イエズスは真の食べ物、真の飲み物」と題された部分で、聖体拝領によって人はイエズスと実際に一致するという教えが語られる部分である。
この部分はヨハネ教会編集者による挿入部分とされているところである。
 いずれにしても、イエスの教えに対して多くの弟子たちがついて行けない状態になっていたのだ。

60 弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言った、「これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」。
61 しかしイエスは、弟子たちがそのことでつぶやいているのを見破って、彼らに言われた、「このことがあなたがたのつまずきになるのか。
62 それでは、もし人の子が前にいた所に上るのを見たら、どうなるのか。

*イエスは神がいるところへ死んで復活するところを見れば信じるようになるというわけだが、そんなことを言われても、弟子たちには信じられないというわけだ。

63 人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。
64 しかし、あなたがたの中には信じない者がいる」。イエスは、初めから、だれが信じないか、また、だれが彼を裏切るかを知っておられたのである。

*イエスは、初めから信じない者や裏切る者は誰かを分かっていた。分かった上で弟子にしたというわけだ。
 いわゆる12使徒は例外だというわけではない。

65 そしてイエスは言われた、「それだから、父が与えて下さった者でなければ、わたしに来ることはできないと、言ったのである」。
66 それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった。

*イエスから信じない者、裏切る者はだれかを知っているといわれたら、正直な弟子たち(どうしても信じられないとか、裏切るかもしれないと思った弟子たちのこと)は、去っていったのだと考えられる。

67 そこでイエスは十二弟子に言われた、「あなたがたも去ろうとするのか」。

*残ったのは、正直でない弟子たち、つまり12使徒というわけだ。12使徒と言われる弟子たちも、イエスを信じなかったり裏切ったりする者がいたということは、よく知られたことだった。
ゆえにイエスの台詞に対する、ペテロの信仰宣言を、ここでわざわざ、わざとらしく福音著者ヨハネが、書いたとかんがえる。

68 シモン・ペテロが答えた、「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。
69 わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」。

*福音著者ヨハネは、ペテロの信仰宣言を褒めるつもりで書いたのだろうか。ちがうだろう。
イエスは、ペテロ言葉を聞いて、嘘を言うな、おまえだって私を裏切るではないか、と思ったはずだ。白々しいことを言うなというわけだ。

70 イエスは彼らに答えられた、「あなたがた十二人を選んだのは、わたしではなかったか。それだのに、あなたがたのうちのひとりは悪魔である」。

*12使徒を冷たく突き放したイエスの台詞である。12使徒として選ばれているのにもかかわらず、イエスを信じず、裏切るではないかというわけだ。
イエスに12使徒中の一人が悪魔であると言われたら、12使徒たちはどう考えただろう。
 イエスから去らずに、イエスから去れなくて、残っていた12使徒たちである。
「信じられないけど、ついていくしかしようがない」「裏切るかもしれないが、ついていくしかしようがない」というのが、使徒たちの本音ではなかっただろうか。

71 これは、イスカリオテのシモンの子ユダをさして言われたのである。このユダは、十二弟子のひとりでありながら、イエスを裏切ろうとしていた。

*「12弟子の一人でありながら」と口語訳は訳しているが、田川訳では「12人のうちの一人」と訳されている。
12使徒全体責任だという意味だね。「ありながら」だと個人責任のイメージだね。