ローマ書を考える(第15章)

 聖書からの引用は、口語訳からのもの。田川建三訳、尾山令仁訳の二つの訳は好対照で読み比べている。

*第15章で、パウロの本音がさらに語られる。傲慢さに満ちあふれているのが、最後には不安に満ちあふれるのが人間パウロを感じさせる。

8 わたしは言う、キリストは神の真実を明らかにするために、割礼のある者の僕となられた。それは父祖たちの受けた約束を保証すると共に、
9 異邦人もあわれみを受けて神をあがめるようになるためである、・・・

*口語訳は「共に」という言葉でつないでいるが、尾山訳は「また、異邦人も・・」田川訳は「及び、異邦人は・・」となっている。
口語訳では、「キリストはユダヤ人と異邦人の両者の救いのためにきた」となる。尾山訳、田川訳だと「ユダヤ人→神の約束によって救われる者」「異邦人→神のあわれみによって救われる者」と言う意味になる。
パウロはユダヤ人優先主義者であると考えるなら、後者の意味になる。

16 このように恵みを受けたのは、わたしが異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を勤め、こうして異邦人を、聖霊によってきよめられた、御旨にかなうささげ物とするためである。
*異邦人を神の捧げ物にするためにパウロは福音宣教をしているのだ。

18 わたしは、異邦人を従順にするために、キリストがわたしを用いて、言葉とわざ、
19 しるしと不思議との力、聖霊の力によって、働かせて下さったことの外には、あえて何も語ろうとは思わない。こうして、わたしはエルサレムから始まり、巡りめぐってイルリコに至るまで、キリストの福音を満たしてきた。

*イエスが語った言葉、イエスが行った行為、等を語ることによって福音宣教をしたのではなく、自分の言葉や業(これはキリストがさせたことだ)や行った奇跡行為中心の福音宣教だったと言っている。
 これでは、俺様がキリストそのものだといっているにほかならないのだ。傲慢、不遜の極みだ。

20 その際、わたしの切に望んだところは、他人の土台の上に建てることをしないで、キリストの御名がまだ唱えられていない所に福音を宣べ伝えることであった。

*だからローマに行くというわけだが、ローマにはすでにキリスト教信者がいて、福音宣教が行われたとろこではないのかねえ

23 しかし今では、この地方にはもはや働く余地がなく、かつイスパニヤに赴く場合、あなたがたの所に行くことを、多年、熱望していたので、――
24 その途中あなたがたに会い、まず幾分でもわたしの願いがあなたがたによって満たされたら、あなたがたに送られてそこへ行くことを、望んでいるのである。

*ローマによってから、ローマの信者の手を借りてイスパニアにいくつもりだと言っている。お願い口調になっているのはそのためか。

25 しかし今の場合、聖徒たちに仕えるために、わたしはエルサレムに行こうとしている。
26 なぜなら、マケドニヤとアカヤとの人々は、エルサレムにおる聖徒の中の貧しい人々を援助することに賛成したからである。
27 たしかに、彼らは賛成した。しかし同時に、彼らはかの人々に負債がある。というのは、もし異邦人が彼らの霊の物にあずかったとすれば、肉の物をもって彼らに仕えるのは、当然だからである。

*使徒行伝にも書かれているように、エルサレム教会のために集めた多額の献金を持って行くわけだが、名目は貧しい人を援助するということになっている。実態はというと、尾山訳の27節「・・異邦人は霊的メッセージをを、その人々から伝えてもらったのだから、物質的なもので彼らに仕えるのは当然であろう」のように、いわば本山に上納金を納めるためだったというわけだ。
 パウロが可哀想になるね。

31 すなわち、わたしがユダヤにおる不信の徒から救われ、そしてエルサレムに対するわたしの奉仕が聖徒たちに受けいれられるものとなるように、
32 また、神の御旨により、喜びをもってあなたがたの所に行き、共になぐさめ合うことができるように祈ってもらいたい。

*この後、パウロは多額の献金を持ってエルサレムに行く。その結果、ユダヤ教の指導者、ユダヤ教徒から迫害されることになる。献金を渡したエルサレム教会には匿ってもらえるどころか邪険に扱われる。その結果、逮捕されてローマに護送されることになった。こういう、一連の出来事を予想していたので、こういう内容の手紙になったのだろう。

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