ローマ書を考える(第14章)

 聖書からの引用は、口語訳からのもの。田川建三訳、尾山令仁訳の二つの訳は好対照で読み比べている。

*パウロの本音と建て前がよくわかるところだ。パウロの詭弁術もよくわかるところだね。ユダヤ教からなかなか脱却できないパウロの姿がよくわかる、まさしく人間パウロだ。

1 信仰の弱い者を受けいれなさい。ただ、意見を批評するためであってはならない。
2 ある人は、何を食べてもさしつかえないと信じているが、弱い人は野菜だけを食べる。
3 食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから。

*尾山訳では、野菜だけを食べる弱い人のことを「菜食主義者」と訳している。菜食主義者と肉食主義者との対立をどう考えるかという意味になっている。
田川訳の注では「弱い人とは、ユダヤ教の食べ物規定にしがみつく人のことで、偶像に供えられた肉を食べない人、偶像の汚れを避けるために異邦人の肉屋で売っている肉を食べない人」と書かれている。
パウロの時代を考えれば、田川訳の注が良い。
パウロは、ユダヤ教の食物規定を守るキリスト教徒も守らないキリスト教徒どちらでも良いではないかと、まずは主張する。

5 また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。
6 日を重んじる者は、主のために重んじる。また食べる者も主のために食べる。神に感謝して食べるからである。食べない者も主のために食べない。そして、神に感謝する。

*いろいろな信者があって良いじゃないか、ユダヤ教の食物規定を守る信者がいても良いじゃないかとユダヤ主義者を弁護する。

8 わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。

*実にかっこ良い、言葉だ。この言葉の後で、ユダヤ教的禁忌の慣習である食物規定を守る信者を擁護するのだ。

13 それゆえ、今後わたしたちは、互にさばき合うことをやめよう。むしろ、あなたがたは、妨げとなる物や、つまずきとなる物を兄弟の前に置かないことに、決めるがよい。

*ユダヤ教的禁忌の慣習を守る信者、守らない信者に対して、中立の立場を表明して、仲良くしようとパウロは言っている。キリスト教はユダヤ的禁忌の慣習打破を目差したのではなかったのか。

14 わたしは、主イエスにあって知りかつ確信している。それ自体、汚れているものは一つもない。ただ、それが汚れていると考える人にだけ、汚れているのである。

*イエスはユダヤ的禁忌である食物規定に反対されたのだ。食べ物に穢れているものはない、というのがイエスの教えなのに、パウロはいちゃもんをつけているのだ。まさしく俺が教祖なのだ。食べ物が汚れていると思っている人がいるのだから、配慮しなさいとパウロは言うのだ。

15 もし食物のゆえに兄弟を苦しめるなら、あなたは、もはや愛によって歩いているのではない。あなたの食物によって、兄弟を滅ぼしてはならない。キリストは彼のためにも、死なれたのである。
16 それだから、あなたがたにとって良い事が、そしりの種にならぬようにしなさい。

*パウロの本音が現れる部分だ。ユダヤ教的キリスト教徒の立場を考えて、そしりの種にならないように行動しなさいと言うことは、どういうことだ。ユダヤ的キリスト教徒から脱却した行動(あなたがたにとって良い事)に対して自制を促しているのだ。

21 肉を食わず、酒を飲まず、そのほか兄弟をつまずかせないのは、良いことである。

*「肉を食わないのがよい」というのがパウロの結論なのだ。どっちでも良い、気にするなとさんざん言っておいたくせに。
尾山訳だと、やっぱり菜食主義でないとだめとなる。田川訳だと、ユダヤ教的禁忌の慣習は良い事だとなる。
酒までダメなどと、イエスの教えに反していることは甚だしい。ユダヤ教でも酒はOKなのだよ。

23 しかし、疑いながら食べる者は、信仰によらないから、罪に定められる。すべて信仰によらないことは、罪である。

*まさしくとってつけたような、説得力のないまとめ方だね。

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