ローマ書を考える(第12章)

 聖書からの引用は、口語訳からのもの。田川建三訳、尾山令仁訳の二つの訳は好対照で読み比べている。

*第12章は、パウロが神の代行者意識で、こういうのを思い上がった態度とよぶか、まさしく教祖パウロの態度とよぶのか、信者に説教たれまくりの章である。

1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。

*冒頭の部分であるが、まさしく神になりかわって説教すという意味だね。「霊的な礼拝」とあるが、「田川訳では理性的な仕方」「尾山訳では当然の礼拝」となっている。信者の生き方全般とてとらえるか、単なる礼拝としてとらえるかで意味がずいぶん異なる。
 あと、微に入り細に入り説教が続くが、気になるところを書きたい。

6 このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、

*信者は預言者にもなりうると言っている。

9 愛には偽りがあってはならない。悪は憎み退け、善には親しみ結び、

*愛には偽りがあってはならないと、わざわざ言うということは、世の中には偽りのある愛がいっぱいあるというわけだ。

20 むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。

*「燃えさかる炭火を積む」というのは、どういう意味だろうか。田川訳の注では「相手は敵からそういう慈善を受けたというので、心理的にかりかりきて、頭の上に火を積まれたようになる」とある。尾山訳では「彼が良心に呵責を覚え、回心するようになる」とある。
 パウロという人物をひねくれ者ととらえるか、下心のある戦略家としてとらえるかであるが・・・

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