ローマ書を考える(第11章)

 聖書からの引用は、口語訳からのもの。田川建三訳、尾山令仁訳の二つの訳は好対照で読み比べている。

*第10章の続きである。イスラエル人思いのパウロ、ユダヤ第1主義のパウロは、とうとう異邦人が救われるのは、イスラエル人が目を覚まさせるためだと言うのだ。
 異邦人はおまけ?

1 そこで、わたしは問う、「神はその民を捨てたのであろうか」。断じてそうではない。わたしもイスラエル人であり、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の者である。
*この驕り高ぶりはすごいね。捨てたのでなければなんなのだといえば、旧約聖書の例を挙げて説明する。

11 そこで、わたしは問う、「彼らがつまずいたのは、倒れるためであったのか」。断じてそうではない。かえって、彼らの罪過によって、救が異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである。
12 しかし、もし、彼らの罪過が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となったとすれば、まして彼らが全部救われたなら、どんなにかすばらしいことであろう。

*イスラエル人がつまずいたことにより、救われるはずがなかった異邦人が救われるようになった。異邦人が救われるのを見たイスラエル人を奮起させる(田川訳では妬ませる、尾山訳では目を覚まさせる)ためというわけだ。

13 そこでわたしは、あなたがた異邦人に言う。わたし自身は異邦人の使徒なのであるから、わたしの務を光栄とし、
14 どうにかしてわたしの骨肉を奮起させ、彼らの幾人かを救おうと願っている。

*パウロは神に異邦人の使徒になるように言われたから異邦人に福音宣教をするけど、本当はイスラエル人を救いたいのだよ、と言っている。
 このことを、オリーブの木の例えで説明している。

22 神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう。
23 しかし彼らも、不信仰を続けなければ、つがれるであろう。神には彼らを再びつぐ力がある。
24 なぜなら、もしあなたが自然のままの野生のオリブから切り取られ、自然の性質に反して良いオリブにつがれたとすれば、まして、これら自然のままの良い枝は、もっとたやすく、元のオリブにつがれないであろうか。
*パウロは、得意の説教も忘れない。あなたたちもイスラエル人のように不信仰だったら、どうなるか分かるねえと、脅かすのを忘れない。

25 兄弟たちよ。あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない。一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、
26 こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう。すなわち、次のように書いてある・・・

*知るべき奥義とは、異邦人が救われたら、次にイスラエル人が救われることだとパウロは言う。パウロはイスラエル人を救うために異邦人の使徒になったのか?

30 あなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は彼らの不従順によってあわれみを受けたように、
31 彼らも今は不従順になっているが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、彼ら自身も今あわれみを受けるためなのである。
32 すなわち、神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである。

*異邦人は不従順だった。イスラエル人が不従順になった。おかげで異邦人があわれみを受けるようになった。それはイスラエル人があわれみを受けるためである。
 神は人類を救うために、いったん不従順のなかに閉じ込めるのだ、とパウロは言う。神の言うことを聞かないようにしてから、救いの手をさしのべるというわけだね。

33 ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。

*神のお考えをパウロはよく分かったねえ。パウロは、コチコチのユダヤ教徒だった。それがキリスト教徒になったわけだ。ユダヤ教徒も救われると言うことも何としても言いたいわけだ。

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