ローマ書を考える(第10章)

 聖書からの引用は、口語訳からのもの。田川建三訳、尾山令仁訳の二つの訳は好対照で読み比べている。

*律法に関して二律背反主義者のパウロだから、行きつ戻りつの理屈が述べられる。ユダヤ教を脱することのためらいも見られる。

3 なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。
4 キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。

*救済に関してのユダヤ人、イスラエル人特権はないと言って、「律法の終わり」発言が出てくる。
「キリストが律法を終わらせた」ととらえるか「律法が到達すべき目標がキリストだ」だが、煮え切らないパウロのことだから、どっちにも取れるように書いたのだろう。あえて言えば、ユダヤ教の律法はいらないが、キリスト教の律法はいるという理屈かな。

8 では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。
9 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。
10 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。
11 聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。

*モーセの言葉や旧約聖書を持ち出して、パウロのキリスト教の基本認識を述べている。イエスを信じて告白すれば救われると言うわけだ。

12 ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。
13 なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。
14 しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。
15 つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。

*パウロの頭の中には一番がユダヤ人、次がギリシャ人というのが抜けきらないが、イエスを信じていない者に福音宣教をしなさいという説教が続く。

16 しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。・・・・
21 そして、イスラエルについては、/「わたしは服従せずに反抗する民に、/終日わたしの手をさし伸べていた」/と言っている。

*福音宣教しても受け入れない者がいるだろう、イスラエル人も反抗するだろうが、あきらめずに福音宣教するんが神の御心だとパウロは言っている。未練があるのだ。

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