ローマ書を考える(第9章)

 聖書からの引用は、口語訳からのもの。田川建三訳、尾山令仁訳の二つの訳は好対照で読み比べている。

*第9章は、ユダヤ民族優先意識、ユダヤ民族選良意識、イスラエル第1主義者であるパウロのジレンマがよく現れている。本当はユダヤ人がユダヤ教徒を止めて、キリスト教徒になってくれれば、それが一番なのだがというのがパウロの本音か?

3 実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない。

*パウロはユダヤ人なのだ、ユダヤ教に未練たっぷりなのだ。

4 彼らはイスラエル人であって、子たる身分を授けられることも、栄光も、もろもろの契約も、律法を授けられることも、礼拝も、数々の約束も彼らのもの、
5 また父祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストもまた彼らから出られたのである。万物の上にいます神は、永遠にほむべきかな、アァメン。

*イスラエル人は神から種々の特権を与えられている。キリストもイスラエル人として肉体を与えられた。イスラエル人は偉いのだというわけだ。

6 しかし、神の言が無効になったというわけではない。なぜなら、イスラエルから出た者が全部イスラエルなのではなく、
7 また、アブラハムの子孫だからといって、その全部が子であるのではないからである。かえって「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」。
8 すなわち、肉の子がそのまま神の子なのではなく、むしろ約束の子が子孫として認められるのである。

*ここで、「真のイスラエル人」こそが救われると言って、キリスト教徒こそが「真のイスラエル人」だと言えば論理は一貫するのだが、パウロは「約束の子が子孫」という言い方でそれらしきことをにおわすだけだ。このあと、旧約聖書から、実例を挙げているが、ピント外れだね。

15 神はモーセに言われた、「わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ」。
16 ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである。
17 聖書はパロにこう言っている、「わたしがあなたを立てたのは、この事のためである。すなわち、あなたによってわたしの力をあらわし、また、わたしの名が全世界に言いひろめられるためである」。
18 だから、神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさるのである。

*神は好きなようにできるだ、そして好きなようにやってきた、これからも好きなようにやるのだよ、人間がとやかく言うべきものではないのだ。

20 ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、「なぜ、わたしをこのように造ったのか」と言うことがあろうか。

*だめ押しで、神に文句を言うなとパウロは言っている。
次に神を陶工にたとえて、選ばれたユダヤ人と、選ばれた異邦人が救われると続ける。

24 神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである。

*神から選ばれた人間だけが救われるというわけだ。この後、ホセア書、イザヤ書を例に、イスラエル人すべてが救われるわけがないと言っている。

30 では、わたしたちはなんと言おうか。義を追い求めなかった異邦人は、義、すなわち、信仰による義を得た。
31 しかし、義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった。
32 なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。彼らは、つまずきの石につまずいたのである。

*選ばれた人間だけが救われる、選ばれるためには信仰が大事というまとめだ。
 異邦人は信仰によって救われたが、イスラエル人は行いによったため救われなかったとパウロは言っている。 信仰による 「真のイスラエル人」である異邦人キリスト教徒こそが救われると断言すればよいのにねえ。

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