ローマ書を考える(第8章)

 聖書からの引用は、口語訳からのもの。田川建三訳、尾山令仁訳の二つの訳は好対照で読み比べている。

*第8章だが、肉体と御霊との関係、関連をパウロはあれこれと説明しているのだが、説教しているうちに壮大な救済論へと発展させていくのだ。ついて行けないね。

1 こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。
2 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。
*キリスト教徒は、罪と死から解放されているという宣言から始まる。

3 律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。
4 これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。

*罪が肉体を通じて人間を支配していたのを、イエスの死によって罪による人間支配をなくしたので、律法が要することができようになった。
 律法なんか関係ないと言わないところが、まさしくパウロでな。わけのわかんない説教。

10 もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。
11 もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。

*キリスト教徒であれば、体は死んでも霊魂は生きている、と言っておいて、体も生かしてくれる、とパウロは言う。10節では霊肉二元論を説いておいて、11節では、霊肉二元論を否定している。どちらが本音なのだ。

13 なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。

*キリスト教徒は、禁欲主義の生活をしなければ死ぬ以外はないと脅かすパウロは、まさしく説教大好き人間だね。厳しい条件をつけるところなどパウロらしいね。

16 御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。
17 もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。
18 わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。

*この世の中を生きることは、苦難と苦しみに満ちたものだとパウロはとらえている。悲観主義者だね。でも、神の子、神の相続人だから苦難や苦しみに耐えなさいと言う説教だ。

19 被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。
20 なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、
21 かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。
22 実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。
23 それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。
24 わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。
25 もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。

*被造物とは、人間以外のすべてものという意味だ。人間も神の子となって永遠の命を与えられる、地上に生きているすべてのものも永遠の命を与えられて救われるとパウロは言っている。パウロはまた、目に見えないものを望めと無茶を言うねえ。栄光の自由、つまり永遠の不死の存在になって光り輝くこと、などというものは目に見えるものではないから、無理もないか。

28 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
29 神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。
30 そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。

*パウロは、いわゆる予定説の立場に立っているととれる部分。なんでもかんでも言いたい放題言ったら、予定説になっちゃったというわけか。神はあらかじめ定められて者を救われるというわけか。

34 だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。

*予定説を説いておいて、みんな心配するな、イエスが神にとりなしてくれるから大丈夫だという。みんな救われるというわけだ。

38 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、
39 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。

*確信してくれなきゃ困るのだが、イエスが救ってくれるというのがキリスト教の要なのだから。


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