ローマ書を考える(第6章)

 聖書からの引用は、口語訳からのもの。田川建三訳、尾山令仁訳の二つの訳は好対照で読み比べている。


 第6章は、根源的逆説、宗教的救済論に内在する欠陥と言うべきか、繰り返しの連続と矛盾に満ちた説教が続く。

6 わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
7 それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。
8 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。

*キリスト教信者は、キリストの死によって、罪から解放された、罪の支配の下にいないと、パウロは言う。これからは罪を犯す可能性はない、幸せに生きられるとパウロは言うかと言えばそんなことはない。

11 このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。
12 だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、
13 また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。
14 なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。

*キリスト教信者は、罪から解放されて、罪の支配の下にいないのに、パウロはキリスト教信者は肉体を罪の支配にゆだねる可能性があるという。魂は大丈夫だが肉体は大丈夫でないぞ、分かっちゃいるけど止められない、というわけだ。神は、魂だけ罪から解放させたのか。
 ところが、神の恵みの下にあるから、罪に支配されることはないとパウロは言う。
 こういうのを論理が無茶苦茶というのだ。

15 それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない。

*罪に支配されていないのにもかかわらず、罪を犯すべきでないとパウロはまたまた言うのだ。

17 しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教の基準に心から服従して、
18 罪から解放され、義の僕となった。

*罪から解放されて、義の僕(神の正義、救いを信じる信者だね)となっているから、大丈夫だとパウロは言うのかと言えばそうではない。

19 わたしは人間的な言い方をするが、それは、あなたがたの肉の弱さのゆえである。あなたがたは、かつて自分の肢体を汚れと不法との僕としてささげて不法に陥ったように、今や自分の肢体を義の僕としてささげて、きよくならねばならない。

*罪から解放されて、罪の下にいないのに、罪を犯すのはあなたがたの肉体の弱さの問題があるからだ、大丈夫ではないぞという結論になっている。

22 しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである。
23 罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。

*キリスト教信者→罪から解放されている→永遠の命
 と約束されているにもかかわらず、実際は
 弱いキリスト教信者→罪を犯す者がいる→死
 なのよというわけだ。
 

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