ローマ書を考える(第4章)

 聖書からの引用は、口語訳からのもの。田川建三訳、尾山令仁訳の二つの訳は好対照で読み比べている。

*ユダヤ人批判の続きである。ユダヤ人は先祖がアブラハムであるから正義とされ、救われるのだという考えを批判している。

3 なぜなら、聖書はなんと言っているか、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とある。
4 いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められる。
5 しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。

*神を信じたから正義とされ救われたというわけだが、続く4節の報酬は支払いとしての例は、信仰の業績主義を意味している。5節では、信仰の業績が低い人でも、認められるとある。つまり信仰には高い低いがあり、高い者ほど多く認められと言うことになる。次に、ダビデの発言で裏付けているが。

9 さて、この幸福は、割礼の者だけが受けるのか。それとも、無割礼の者にも及ぶのか。わたしたちは言う、「アブラハムには、その信仰が義と認められた」のである。
10 それでは、どういう場合にそう認められたのか。割礼を受けてからか、それとも受ける前か。割礼を受けてからではなく、無割礼の時であった。
11 そして、アブラハムは割礼というしるしを受けたが、それは、無割礼のままで信仰によって受けた義の証印であって、彼が、無割礼のままで信じて義とされるに至るすべての人の父となり、
12 かつ、割礼の者の父となるためなのである。割礼の者というのは、割礼を受けた者ばかりではなく、われらの父アブラハムが無割礼の時に持っていた信仰の足跡を踏む人々をもさすのである。

*割礼問題へのこのこだわり、いかに無割礼でもよいかをアブラハムの例で説明している。アブラハムは無割礼の時に義とされたから、無割礼でもよいのだという理屈だね。

16 このようなわけで、すべては信仰によるのである。それは恵みによるのであって、すべての子孫に、すなわち、律法に立つ者だけにではなく、アブラハムの信仰に従う者にも、この約束が保証されるのである。アブラハムは、神の前で、わたしたちすべての者の父であって・・

*律法に立つ者はOKだ、立たない者も信仰があればOKだ、という理屈。ユダヤ教徒は救われる。ユダヤ教からの脱却を図ろうとしている我々もOKだというから矛盾だらけの説明になるのだ。

25 主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。

*イエスが殺されたのは、私たちの罪過のためで、イエスの復活は私たちが正義とされ救われるためだというのがパウロの教条だ。


 (第3章へ)      (第5章へ)