ローマ書を考える(第3章)

 聖書からの引用は、口語訳からのもの。田川建三訳、尾山令仁訳の二つの訳は好対照で読み比べている。

*第3章でパウロは自分が考える救済論を述べている。

1 では、ユダヤ人のすぐれている点は何か。また割礼の益は何か。
2 それは、いろいろの点で数多くある。まず第一に、神の言が彼らにゆだねられたことである。

*パウロはユダヤ人優越論者である。ユダヤ人の優れている点はいくつもあると言っているが、あげているのは一つだけ。割礼の益についても何の説明もしていない。
 神の言とは、具体的には旧約聖書のことだね。

9 ・・・わたしたちには何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にあることを、わたしたちはすでに指摘した。
10 次のように書いてある、/「義人はいない、ひとりもいない。
11 悟りのある人はいない、/神を求める人はいない。
12 すべての人は迷い出て、/ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、/ひとりもいない。13 彼らののどは、開いた墓であり、/彼らは、その舌で人を欺き、/彼らのくちびるには、まむしの毒があり、
14 彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。
15 彼らの足は、血を流すのに速く、
16 彼らの道には、破壊と悲惨とがある。
17 そして、彼らは平和の道を知らない。
18 彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。

*一転して、みんな罪人だとパウロは言う。その根拠として、パウロが知っている旧約聖書に書かれている箇所をあげている。旧約聖書はユダヤ人のためのものだろう。

20 ・・・律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。

*律法を全部守れる人間はいない。律法が生み出すのは罪の自覚だというわけだ。これは正論だ。

23 ・・・すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、
24 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
25 神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、
26 それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。

*パウロ救済論が語られている。すべての人間は罪を犯す。その罪を赦してもらうためには、神に対する贖いがいる。贖いというのは、身代金(供え物)を差し出して神に釈放、解放してもらうことだ。人間一人一人が罪に対する身代金を神に差し出さなければならないのだ。
 そんなことは無理だから、恵み深い神は、無料で人間の罪を赦すことにした。イエスを供え物とすることによって、人間の罪を赦そうとした。
 だから、神を信じ、イエスを信じなさい、というわけだ。
 神が、神に対してイエスを供え物して、神が人間の罪を赦すことにした、という発想、考え方、思想がまさしく宗教の本質だね。

27 ・・・行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。
28 わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。
29 それとも、神はユダヤ人だけの神であろうか。また、異邦人の神であるのではないか。確かに、異邦人の神でもある。
30 まことに、神は唯一であって、割礼のある者を信仰によって義とし、また、無割礼の者をも信仰のゆえに義とされるのである。
31 すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法は確立するのである。

*27−29節で言っていることと、30−31節で言っていることは矛盾だね。
 信仰→人を義とする。律法→人を義としない。
ここからは、律法は無効であるという結論が出てくると思いきや、パウロは律法が確立するという。無効じゃないというわけだ。パウロは本当のところ、律法をどうしたいのだ。
 まあ考えるに、ユダヤ教の律法は無効だが、パウロの説く律法(キリスト教の律法)は有効だと言いたいわけだ。
 それにしても、割礼の益とは何かということだが、
割礼のある者→信仰→義とする
割礼のない者→信仰→義とする
というのであれば、結局のところ割礼による益などはないという結論になるではないか。

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