ローマ書を考える(第2章)

 聖書からの引用は、口語訳からのもの。田川建三訳、尾山令仁訳の二つの訳は好対照で読み比べている。

*第2章は、ユダヤ人批判のオンパレードである。

9 悪を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、患難と苦悩とが与えられ、
10 善を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、光栄とほまれと平安とが与えられる。
11 なぜなら、神には、かたより見ることがないからである。

*パウロの頭の中には、第1がユダヤ人、第2がギリシャ人、後はその他の異邦人というランク付けがある。そして、悪人と善人に分けられる。

13 ・・律法を聞く者が、神の前に義なるものではなく、律法を行う者が、義とされるからである。

*律法を行う者が善人、行わない者は悪人だと単純明快。律法を知らない異邦人も、律法の命じるところのことを行っておれば大丈夫だとパウロは言う。

14 すなわち、律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。
15 彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互にあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである。16 そして、これらのことは、わたしの福音によれば、神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事がらをさばかれるその日に、明らかにされるであろう。

*「私の福音」というのはすごいねえ。まさしく教祖そのものだ。そして、ユダヤ人は律法を守っていないと糾弾する。この論理で行けば、ユダヤ人は悪人と言うことになる。

17 もしあなたが、自らユダヤ人と称し、律法に安んじ、神を誇とし、・・・・
21 なぜ、人を教えて自分を教えないのか。盗むなと人に説いて、自らは盗むのか。
22 姦淫するなと言って、自らは姦淫するのか。偶像を忌みきらいながら、自らは宮の物をかすめるのか。
23 律法を誇としながら、自らは律法に違反して、神を侮っているのか。

*ユダヤ人と称している人間は、言うこととやることが違うではないかというわけだ。逆に言うと、パウロは自分のことを正真正銘のユダヤ人だといいたいのか。
 次に割礼問題に関するパウロの論理が律法問題と絡めて語られる。

25 もし、あなたが律法を行うなら、なるほど、割礼は役に立とう。しかし、もし律法を犯すなら、あなたの割礼は無割礼となってしまう。
26 だから、もし無割礼の者が律法の規定を守るなら、その無割礼は割礼と見なされるではないか。

*律法を行う者にとっては、割礼が役立つ。律法を犯す者にとっては、割礼は役立たない。無割礼の者が律法を守ると無割礼が役だったことになるから割礼と同じだという論理はこじつけの極みだね。

28 ・・・外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。
29 かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。

*割礼なんか、関係ないと言いたいのだが、この論理展開は無茶ですね。本当のユダヤ人は、心の割礼をした者で、肉体の割礼をした者ではないと言いたいわけだ。
 外見上のユダヤ人→割礼をしている→律法を守っていない→本当のユダヤ人ではない
 隠れたユダヤ人→割礼をしていない→律法を守っている→本当のユダヤ人
 というような組み立てになるのだが、そもそも割礼は律法に入っていたのではないか。割礼をすることは律法を守る事ではなかったのか。

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