ローマ書を考える(第1章)

 聖書からの引用は、口語訳からのもの。田川建三訳、尾山令仁訳の二つの訳は好対照で読み比べている。

1 キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び別たれ、召されて使徒となったパウロから――

*パウロの自己紹介の始まりであるが、まさしく教祖である。神が私を使徒とした、十二使徒より格上だというわけだ。

3 ・・御子は、肉によればダビデの子孫から生れ、
4 聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた。これがわたしたちの主イエス・キリストである。

*素直に読めば、イエスキリストはダビデの子孫で、復活により神の御子になったということになる。パウロはそう考えていたということだ。後、ローマの信徒への挨拶が続く。

8 まず第一に、わたしは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられていることを、イエス・キリストによって、あなたがた一同のために、わたしの神に感謝する。

*さすが教祖である。私の神に感謝である。私たち(ローマの信徒たち)の神に感謝ではない。パウロという人物、謙譲の美徳はない、傲岸不遜そのもの。

14 わたしには、ギリシヤ人にも未開の人にも、賢い者にも無知な者にも、果すべき責任がある。
15 そこで、わたしとしての切なる願いは、ローマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝えることなのである。

*パウロの頭の中には、ユダヤ人、ギリシャ人、それ以外は未開の人、という分類がある。

16 わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。

*わざわざ福音を恥じとしないと、などと書かざるを得ないと言うことは、恥だと感じさせられた経験があるのだ。る

17 神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。

*「神の義」とは何かと言うことだが、尾山訳では「神の救い」と訳し、旧約聖書のハバクク書に「救われる人は信仰によって生きる」と意訳している。田川訳の注では「神の正義、神が正しいと言うこと、神の正しさ」とある。「義人」とはなんぞやだが、「救われる人」か「神に従う人」か「神の正義を行う人」か、さてどの意味なのだ。

18 神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。

*「義人」でない「不義人」「非義人」「反義人」「義人でないもの」には神の怒りがあるとパウロは言う。

21 ・・彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。
22 彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、
24 ゆえに、神は、彼らが心の欲情にかられ、自分のからだを互にはずかしめて、汚すままに任せられた。

*神の怒りの中味はとは、「義人でないもの」の好きなようにさせたことだ。「好きなようにさらせ」というわけだ。薄情な神ですね。

26 それゆえ、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられた。すなわち、彼らの中の女は、その自然の関係を不自然なものに代え、
27 男もまた同じように女との自然の関係を捨てて、互にその情欲の炎を燃やし、男は男に対して恥ずべきことをなし、そしてその乱行の当然の報いを、身に受けたのである。

*「好きなこと」の中味は、具体的ですね。レスビアン、ゲイのことだ。逆に言うとレスビアンやゲイは、「義人でないもの」というわけだ。

28 そして、彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた。
29 すなわち、彼らは、あらゆる不義と悪と・欲と悪意とにあふれ、ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、また、ざん言する者、
30 そしる者、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、
31 無知、不誠実、無情、無慈悲な者となっている。
32 彼らは、こうした事を行う者どもが死に価するという神の定めをよく知りながら、自らそれを行うばかりではなく、それを行う者どもを是認さえしている。

*すごい理屈だね。神は、神を認める、認めないという自由を人間に与えた。その結果、「認めない」という人間が出てきた。「認めないという人間」を神は放置した。故に、「認めないという人間」は種々の悪の行動を行うことになったというわけだ。
 この理屈だと、「神を認めない」という自由を人間に与えた神にも責任があるということになる。そもそもそのような選択の自由を与えるからいけないのだ。
 選択の自由の結果ではなくて「神を認める」ということが分からない人間がいるからだ、能力がない人間もいるからだ、というようにパウロは言うかもしれない。
 でもね、そういう人間を作ったのは神だ。やっぱり神にも責任があると言うことになる。

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