ヤコブ書を考える
          2015,5,27


 ヤコブ書は、私が好きな手紙である。どこが好きかということを、あれこれ書いていきたい。
聖書の引用に関しては、大胆な意訳が特徴の尾山訳(現代訳聖書刊行会)、注が満載で直訳が特徴の田川訳(作品社)からとることにする。

(1)誰が誰に、何のために

(田川訳)第1章1節
ヤコブ、神と主イエス・キリストの僕。散在する十二支属へ。
 とあるように、著者はヤコブ、誰にと言えば散らばってすんでいるユダヤ人に、ということになる。ユダヤ人と言っても、キリスト教徒のユダヤ人にである。

 ヤコブは誰かということであるが、イエスの弟であるヤコブ、十二使徒の一人であるヤコブ、であるとかいわれているが、誰のことは分からない。
 何のためにかであるが、この書を読んでみると、パウロが書いたガラテヤ書に対する反論のためであると考えている。

(2)神に願うのは知性(知恵)である

(尾山訳)第1章5節
あなたがたの中で、知恵が足りないと思っている人があれば、その人はだれにでも惜しみなく与えてくださる神に願い求めなさい。

 知性があれば、何が正しいのか自分で判断できて、実行できるのだ。だから、神に知性を願いなさいというわけだ。

(3)搾取する者、金持ちはくそ食らえ

(尾山訳)第5章1−6節
1 金持ちの人たちは、よく聞きなさい。あなたがたは、自分の身に襲ってくる災いを思い、声を上げて、泣き悲しみなさい。
2 あなたがたの財は朽ちてしまい、着る物は虫に食われ、
3 金銀はさびてくる。そのさびは、あなたがたの心の腐敗を表している。それは、あなたがたの体をむしばんでいく。あなたがたは世の終わりに生きているのに、なお地上に宝を蓄えている。
4 あなたがたが労賃を搾取したために、彼らが叫んでいる叫び声は、すでに全能の主の耳に届いている。
5 あなたがたは、この地上でぜいたくに暮らし、したいほうだいのことをして、主のさばきの日を待っている。
6 罪のない人を罪に陥れ、殺してきた。しかも、彼らはあなたがたに少しも抵抗しなかった。

 ヤコブの時代は、ローマ帝国の時代だ。金持ちとは、まず大土地所有者、地中海貿易で儲ける大商人、それからローマ帝国の権力者をさしている。
 労働者を搾取して富を築いた大金持ちは、それ自体として罪悪だとヤコブは言っている。
 金持ちに対する拒否意識は、第1章から始まっている

(尾山訳)第1章11節
たとえば、暑い太陽が上って草を枯らすと、花は落ちてしまい、その美しさは消えてしまう。それと同じように、金持ちも、富を追い求めている途中で死ぬことになるのである。

 金持ちくそ食らえ意識でヤコブ書は書かれているのだ。

(4)実践的な行動のない「信仰」なんて、何の意味もない。

 ヤコブは、第2章2節から、教会に来る金持ちの信者には良い席を勧め、貧乏人の信者には地べたに座らせる例を挙げて、差別するなと言っている。実際、このような例があったのだろう。

(田川訳)第2章14−17節、24節
14 我が兄弟たちよ、もしも誰かが、自分は信仰を持っていると言いながら行為を持たないとすれば、それが何の役にたつか。信仰がその人を救うことなぞ、できないではないか。
15 もしも、兄弟か姉妹が裸でいて、日々の食べ物にもこと欠くとして、
16 あなた方のうちの誰かがその人たちに、平安のうちにお行きなさい、暖まって、満ち足りなさい、と言い、しかし身体に必要なものを与えてあげないとすれば、それが何の役に立つか。
17 このように信仰もまた、行為をともなわないとすれば、それ自体として死んでいるのである。

 パウロへの批判はこの一言でとどめをなしている。

24 人は行為から義とされるのであって、信仰からだけで義とされるわけでないと、知るがよい。

 「義」という言葉の意味だが、「人が神に受け入れられ救われること、人が神に認められて救われること」「よっしゃ、よっしゃ、あんたは良い子やなあと、言ってもらえて褒められること」というようなことだろう。

(5)偉そうに指導者面をするな、信徒と指導者は平等だ。

(尾山訳)第3章1−2節
1 信者の皆さん。多くの者が教会で人を教える立場に立たない方がよい。私たち教師は、ほかの普通の信者よりも、はるかに厳しいさばきを受けなければならないからである。
2 私たちはだれでも皆、多くの失敗をする。もしことばの上で失敗しない人があったら、あらゆる点で自分を制御できるりっぱな人である。

 尾山訳が分かりやすい。指導者面をしたがって、我こそは教師だと言ってしゃしゃり出るような人間がいる。この当時、次第に教会教職制度ができつつあり、我こそは偉大な教師だと威張りくさる人間がでてきたのだろう。信徒に対して偉そうに言うような教師になるな、信徒と教師は平等だぞ、とヤコブは言っているのだ。

(6)知性(知恵)は愛の業、平和を生み出す。

(尾山訳)第3章13節、17−18節
13 あなたがたのうちで、知恵のある賢い人はだれだろうか。その人は、知恵にふさわしい柔和な愛の業を行っている人ではないか。
17 神からの知恵は、第1に純粋で、次に平和、寛容、温順であり、あわれみと良いもので満ち、えこひいきがなく、偽りのないものである。
18 神の御心にかなったことは、平和を願う人たちによって、平和のうちにつくり出されていく。

 柔和な愛の業は、知恵が生み出すのであり、実践的な行動は柔和な愛の業による。神からの知恵、倫理的な主張は、平和な世の中を平和な仕方でつくることだと明快だ。平和な社会、平和な世の中をつくるといって、戦争を起こすようなことは、神の御心にかなっていないということだ。

(7)教会内部の対立、抗争について

(尾山訳)第4章1−3節
1 あなたがたの間に争いや不和があるのは、いったい何が原因なのか。あなたがた自身が心の中で分裂していて、お互いに争っているからではないか。
2 あなたがたは、欲しがってもそれが手に入らないと、人殺しまでしてそれを手に入れようとする、いくらうらやんでも自分のものにならないと、力づくでそれを取ろうとする。しかし、あなたは神に求めないから得られないのだ。
3 求めても、なお得られないのは、自分の利己的な動機や間違った目的で求めているからだ。

 このヤコブ書が書かれた当時、教会内部で対立・抗争が生まれてきた。自分のたちの仲間に入らない者は、異端と見なして排除する動きが生まれてきたのだ。いいかげんせんかい、仲良くせんかい、とヤコブは言っている。


(8)まとめ

 私のヤコブ書理解は、次のようになる。
 知性とは、聖書に出てくるロゴスのことである。神は知性を持って、人間を生み出した。神の恵みとは知性のことである。知性を高めることは神の声を聞くことだ。知性は実践と結びつかなければ意味がない。実践とは何かと言えば、世のため人のために働くことである。世のため、人のために働くことが神の御心である。