ガラテヤ書を考える(その1、献金に関して)
 聖霊降臨の主日
 2015,5,24
 ガラテヤ5章15−25

14 律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。
15 気をつけるがよい。もし互にかみ合い、食い合っているなら、あなたがたは互に滅ぼされてしまうだろう。
16 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。
17 なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。
18 もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。
19 肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、
20 偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、
21 ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。
22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、
23 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。
24 キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。
25 もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。
26 互にいどみ合い、互にねたみ合って、虚栄に生きてはならない。

この日のミサでT神父は聖霊を磁石に例え、「信徒は聖霊という磁石の働きによって今日、集まっている。磁石が強ければもっと信徒が増えると考えている人がいるかもしれないが、増える増えないは人の自由意志によっている・・」などという、わけの分からない話をされた。
 このT神父は、わけの分からない支離滅裂な話を毎回するので、こんな話では信徒は増えないなあと思っている。
さて、この日の第2朗読者は私で、16節から25節を朗読したこともあり、ガラテヤ書をあれこれ考えてみることにした。
 悪名名高い十一献金の理屈付けにマラキ書が持ち出されるが、新約聖書では、ガラテヤ書の第6章6−7節が持ち出されることがある。手持ちの新約聖書からこの部分の訳を書き出すと以下のようになる。
(口語訳)
6 御言を教えてもらう人は、教える人と、すべて良いものを分け合いなさい。
7 まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。(新共同訳)
6 御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。
7 思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。
(尾山、現代訳)
6 神のことばを教えてくださる人に対しては、十分な謝礼をしなければならない。
7 そのようにしないことは、神のことばを教えるように立てられた神の権威に対して反抗することであり、その報いをやがてわが身に受けることになる。
(吉祥寺キリスト集会用、新改訳?)
6 みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい。
7 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。
(新世界訳)
6 さらに、だれでもみ言葉を口頭で教えられている人は、そうした口頭の教えを与えている人と共にすべての良い事にあずかりなさい。
7 惑わされてはなりません。神は侮られるような方ではありません。何であれ、人は自分でまいているもの、それをまた刈り取ることになるのです。
(バルバロ訳)
6 みことばを教えてもらう人は、教えてくれる人に自分の持ち物を分け与えよ。
7 自分を欺いてはならない。神を侮ってはならない。人はまくものを収穫するからである。
(フランシスコ会訳)
6 福音の教えを受ける人は、授けてくれる人と良いものをすべて分かち合いなさい。
7 思い違いをしてはいけません。神は人から愚弄されることはないのです。人は自分の蒔いたものを刈り取ります。
(田川訳)
6 御言葉を教えられる者は、教えてくれる人と、良いものをすべて共にしなさい。
7 間違ってはいけない。神が軽んじられるようなことはない。つまり、人が何かを蒔くとしたら、自分で刈り取るべきである。

 まあ、ずいぶん違うものだと感じ入る。尾山訳は、大胆に意訳されているので、「良いもの」とは「謝礼」のことだとしている。「謝礼」を出さない者は、天罰が下るというわけだ。
 「良いもの」と訳すかか「良い事」と訳すかで、意味が違ってくる。
 「良いもの」は何かと言うことなら、「持ち物」や「謝礼」ということにもなる。
 「良い事」なら「精神的な良いもの」「善」「良心」ということにもなる。
 さてどちらの意味かと言うことだが、パウロという人物をどうとらえるかということになる。聖人だったら「金をよこせ」というはずはない、「良心」を共有しようということだということになるし、パウロも人間だよなあということなら「経済的にある程度支えてもらって当然だよな、謝礼ちょうだい」ということになる。