「葡萄の木の譬え」続きの説教
復活節街6主日 2015,5,10
ヨハネ福音書15章9ー17

9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。
10 もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。
11 わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。
12 わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
13 人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
14 あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15 わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。
16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。
17 これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである。



 パンフレットに載せられている写真は、「ペトロの足を洗うイエス」の話である。有名な話だ。
イエスはペテロのことを私の僕などとは、呼んでいない。だいたい、僕の足を洗うような主人はいないのだ。
弟子たちを僕扱いをしているのなら、足などは間違っても洗わない。
 葡萄の木の譬えに続く、この説教も、福音著者ヨハネが書いたものではない。
ヨハネ教会編集者(第1,第2ヨハネの手紙を書いた人たち)による、付け加えだ。
 12使徒をはじめとする信者たちを、イエスは私の僕などと言うわけがない。
ヨハネ教会編集者にとって、信者たちは私の僕だったのだろう。
信者たちを僕扱いしてきたので、こういう表現をしたのだろう。
 16節の「・・あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。」
という台詞であるが、イエスがこんな安っぽい台詞を言うはずがない。
これでは、新興宗教の宣伝文ではないか。
 ただ、イエスの「戒命」、イエスが弟子たち、信者たちへの命令として、
 「互に愛し合いなさい」
 「友のために自分の命を捨てること」
 をあげているのは、自分への教訓、「戒命」としてせねばならないことだ。
 同じく16節の「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。・・・」であるが、
12使徒への権威付け、12使徒信仰の持ち込みだという考え方もあるだろう。
 しかし、私は「どうして、クリスチャンになったのか」という理由は、
「自分意志でからなったのではない。まさしくイエスの導き、イエスが私を選んだからなのだ」と言うべきだろう。
 「イエスが私を選んだのである。」「イエスが私を選んだ結果、私はクリスチャンになっただ。」