排除思想としての「葡萄の木のたとえ」
 復活節第5主日 2015,5,3
 ヨハネ福音書15節1−8

1 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
2 わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。
3 あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。
4 わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。
5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。
6 人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。
7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。
8 あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。

 第14章31節の最後のイエスの言葉が「立て、さあ、外に行こう」である。
さあ、出発と言ってから、長々とイエスが説教を行い続ける。それが、15,16,17章である。
これらはすべて福音著者ヨハネの記述ではなくて、第1,第2のヨハネの手紙を書いたヨハネ教会の編集者による付け加えとというのが田川建三説である。 
全く同感である。
 この1節から8節までは、矛盾に満ちている。葡萄の木はキリスト教会であり、実は信者のことである。
キリスト教会の信者でも、○の信者と×の信者があると2節で言う。
 ところが、4節から6節では、キリスト教会の信者は○であるが、信者でない者は×であると言う。
 簡単に言えば○の人は救われる人で、×の人は救われない人というわけだ。
 7節にあるように、○の人は「なんでも望むものを与えられる」というように、なんでも望み次第の生活ができるというわけだ。
 さらに8節では、「わたしの父は栄光をお受けになる」とあるが、「わたしの父」はいったい誰から栄光を受けるのだ。
「わたしの父」とは神のことだから、神に栄光を与えるのは誰だ。それは、○の信者からということにしかならない。
 栄光を与えるのは信者で、栄光を受けるのが神というわけだ。人間の方が神より偉いというわけだ。
 先日、某神父がこの部分を用いて説教を行っていた。「信者には2種類ある。○の信者になりなさい、
そうすれば望みが叶う、×の信者では救われないですよ」
というような内容だった。
もっとも、この某神父の説教中は目を閉じて居眠りをしている信者が多いので実害はあまりないが・・
 「信者を責める神父には救いはない」