結婚と終末について
 2015,1,15 年間第3主日
 コリント教会への第1の手紙 第7章25−31

25 童貞、処女については、わたしは主の命令を受けてはいないが、主の恵みによりて信実であるとされている者として、意見を述べよう。
26 わたしはこう考える。現在迫っている逼迫ゆえに、そのようにあるのが良い。人はそのようにあるのが良い。27 もし女に結ばれているなら、解こうとするな。女に結ばれていないなら、女を求めようとするな。
28 しかし、たとい結婚していても、罪を犯したのではない。また、童貞、処女が結婚しても、罪を犯すのではない。ただ、それらの人々はその肉体に苦悩を持つであろう。わたしは、あなたがたに譲歩してあげている。
29 兄弟たちよ。時は縮まっているから、このことをいうのだ。今からは女を持つ者は持たないもののように、30 泣く者は泣かない者のように、喜ぶ者は喜ばない者のように、買う者は持たない者のように、
31 この世を利用する者は、利用しない者のようにすべきである。なぜなら、この世の形は過ぎ去るからである。

 パウロは、コリントの教会からの結婚に関する質問に答えて、世の終わりを前にしたキリスト者の生き方を語っている部分である。
パウロという人は、主の命令は受けていないが、受けているのと同じだと言う人である。人間的と言えば人間的、傲慢、不遜な姿が冒頭の言葉から浮かんでくる。
 パウロは、男女の性的関係に関しては、性的禁欲主義者であるのは明白だ。童貞・処女は性的関係を持たないのが良い、なぜならば性的関係を持つと性的欲望が高まって困るぞというわけだ。
性的禁欲主義者からは、性的欲望を持つことそのものが、苦悩だというわけだ。そういう苦悩から逃れなさいと言うわけだ。
 恩ぎせがましいパウロは、コリント教会の人々はパウロのように性的禁欲主義者にはなれないだろうから、譲歩してあげよう、どうしても性的関係を持ちたいのなら勝手にすれば・・・というのが、パウロの主張である。
 さて、パウロは世の終わりが、パウロの存命中にやってくると考えてた。2000年近くたっても、終末はやってこないとは考えていなかった。
 だから、神に心を向けて生きなさいというわけだが、その具体例たるや、わけがわかんないにつきるのだ。「女を持つ者は持たない者のように」は、性的禁欲主義者で生きよと言うわけでまだ分かる。
「泣く者は泣かない者のように」は、泣いたらあかん、という意味なら分かる。「喜ぶ者は喜ばない者のように」は、喜びに満ちた暮らしをするなと言う意味か?
「買う者は持たない者のように」は、あれこれ買えるような者は、金持ちだね、持たない者、貧乏人だね、貧乏人になりなさいということか?
「この世を利用する者は、利用しない者のようにすべき」は、仙人のような、世捨て人のような暮らしをせということか?この世に関わりないというような態度をとって生きよということか?
 この世のことなど超越して生きよと言うことか?どうやらパウロは神に心を向けて生きると言うことは、世の中と関係のない生き方をしろと言っている。
 修道院に入って修道士、修道女になるしかないようだ。