火を投ずるイエス(使徒派遣の説教)から
カトリック年間第20主日C年 2013,8,18
ルカ福音書12・49−53

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためにである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。・・・」
 と弟子たちにイエスは言う。マタイにも同様な話がある。俗に言われるところのQ資料なるものから取られたようだ。
 「地上に火を投ずため」「わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。」とイエスは、言われる。
 地上には火が燃えていない。私が地上に火をつける。その結果、平和ではなくなる。私の教えによって、家族は分裂し対立するぞというわけだ。
 イエスの教えに従って行動すれば、家族の中で(当時は、家族全員がユダヤ教徒)イエスの教えに従う者と、従がわない者とに別れ争うことになるよ、というわけだ。
 イエスのこの言葉を書き伝えたルカは、キリストの信者となった家族と、そうでない家族との軋轢を見聞きしただろう。
やめとけという家族の反対を押し切ってキリスト教徒になった人々を見聞きしたのだろう。
その上で、このイエスの説教を福音書に書き記したのだろう。 
今日、この説教をどのように捉えていくかだが、自分の主義主張、信条に関して家族の理解を得るのは、大切であると同時に、困難がつきまとうということだろう。
それがその次代の少数派である場合には、特に困難だということだろう。
私の近所に住むある創価学会員は、家族の反対を押し切って、家の仏壇を庭で燃やした。(家の仏壇は他宗派のもの)
それを見ていた家族は、嘆き悲しんだ。こういう場合をどう考えるかだろうね。
原理主義の立場にたてば、他宗派は排撃して当然ということになる。寛容主義に立場にたてば、共存していこうということになる。
私は、福音書を読む限り、イエスの立場は、どちらにでも読めるのだ。