「死者の日」に寄せて
 2014,11,2
(ヨハネ福音書6章36−40)

36 しかし、あなたがたに言ったが、あなたがたはわたしを見たのに信じていない。
37 父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。そして、わたしに来る者を外に放り出すことはない。
38 わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためだからである。
39 わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。
40 わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」。

 11月2日には、カトリック教会では「死者の日」とされる日である。教会に納骨堂があり、そこで関係者とミサが行われることもあり、先立つミサへの参加者も多い。
 さて、上記ヨハネ福音書の部分は、ヨハネ教会編集者による挿入部分として知られる部分である。
ヨハネ教会編集者は、「終末の時に人間たちは復活してきて、最後の審判を受け、救済されるものと断罪されるものとに分類される」という考えの持ち主である。
福音著者のヨハネは、そのように考えていないことは福音書を読めば分かる。35節、47−50節は福音著者ヨハネの原文である。そこには「私が生命のパンである。
私のもとに来る者は飢えることがなく、私を信じる者は常に渇くことはない」「信じる者が永遠の生命を持つ。私は生命のパンである。」とヨハネは書いている。
 つまり、終末だ、復活だ、最後の審判だ、などとはヨハネは考えていないのだ。
 私は、死んだことがないので、死後どうなるかは分からない。肉体は滅ぶのは明確だ。
いわゆる魂、霊魂なるものがどうなるかは、分からない。ヨハネが書いている「信じる者が持つという永遠の生命」なるものがどのようなものかは、これまたよく分からない。