マラキ書と十分の一献金について


 旧約聖書のマラキ書ほど悪用された書はない。献金強要への悪用である。
 マラキ書は短い預言書なので、すぐ読める。問題の部分は以下の通りである。
翻訳によって、かなりの違いがあるが、新共同訳ではこう書いてある。
 3章7節から
7,あなたたちは先祖の時代からわたしの掟を離れ、それを守らなかった。
立ち帰れ、わたしに。そうすれば、わたしもあなたたちに立ち帰ると万軍の主は言われる。
しかし、あなたたちは言う、どのように立ち帰ればよいのか、と。
8,人は神を偽りうるか。あなたたちはわたしを偽っていながらどのようにあなたを偽っていますか、と言う。
それは、十分の一の献げ物と献納物においてである。
9,あなたたちは、甚だしく呪われる。あなたたちは民全体で、わたしを偽っている。
10,十分の一の献げ物をすべて倉に運びわたしの家に食物があるようにせよ。
これによって、わたしを試してみよと万軍の主は言われる。
必ず、わたしはあなたたちのために天の窓を開き祝福を限りなく注ぐであろう。
11,また、わたしはあなたたちのために食い荒らすいなごを滅ぼしてあなたたちの土地の作物が荒らされず
畑のぶどうが不作とならぬようにすると万軍の主は言われる。
12,諸国の民は皆、あなたたちを幸せな者と呼ぶ。
あなたたちが喜びの国となるからだと万軍の主は言われる。

 この部分が、どのように悪用されているかというと。
ライフハウスインターナショナルチャーチという教会のHPには、軽いのりで、
『☆献金について☆
今日は十一献金について、書いてみるよーー(^^)♪
聖書には献金について書いてあるんだ!
マラキ書 3:10 (リビングバイブル)
「収入の十分の一をすべて倉に携えて来い。そうすれば、神殿には食べ物が十分あるようになる。
そうすれば、わたしは天の窓を開いて、すばらしい祝福をあふれるばかりに注ごう。試してみよ。わたしに、そのことを証明させてほしい。」
十一献金は、自分がもらった収入の1/10を献金として神様に捧げること☆
忠実に献金をしていくことで、金銭面でも金銭面以外でもすべての分野で成功したり祝福をたくさんもらっていけるんだ(^^)
教会を通して神様が望んでることをこの献金を用いて行っていけるし、自分にもたくさん祝福が返ってくる!
献金は良いこと尽くしなんだよ〜(´ω`*)♪』
 と言う具合に、悪用されるのだ。
もっとも、このキリスト教会は、悪用とは思っておらず、1/10献金をすれば成功と祝福を神は与えてくれると信じているだけかもしれないが。
 1/10献金をしなければ、どうなるのかは、書いてないけど分かるねえ。
神は成功も祝福も与えてくれないぞ、というわけだ。
 神というのは、金次第で成功も祝福も与えてくれる存在というわけだね。
 年収1000万円の収入がある人が100万円献金するのと、年収100万円しか収入のない人が10万円も献金するのと同額の献金だと考えている。
 生活保護を受けている信者にも1/10献金をさせるのか?
 ちょっと考えてみれば、そのおかしさが分かるではないか。
 旧約聖書のマラキ書が言っている「あなたたち」とは、いったい誰のことかと言えば、ユダヤ教徒のことを指している。
キリスト教徒のことを指していないのだ。イエスは誕生すらしていないのだから。
 十分の一の献げ物と献納物は、神とユダヤ教徒(ユダヤ人)の契約に基づいたものである。
契約の条項が拘束力を持つのは、契約の当事者達だけなのだ。そういう契約をしたことが無いキリスト者は当事者ではないのだ。
 ゆえに、マラキ書を持ち出してを、十一献金をしないと罪であるというような主張の裏づけとして悪用するのは、許されないのだ。
 「旧約聖書はユダヤ教徒を対象とした約束の書であり、新約聖書はキリスト教徒を対象とした約束の書である。」
 新約聖書のどこを読んでも、1/10献金などというものは出てこないのだ。
 ユダヤ教徒のいう神とキリスト教徒のいう神は同じ神ではない。ユダヤ教徒はキリストを神として認めるはずはないのだ。
 献金は、何分の何というようにキリスト教徒の神は、決めていない。
ではどするのか。「出せるだけ出せばよい」のだ。何分の何にするのは、一人一人が決めればよいのだ。