宴会についての三つの譬話から
 ルカ福音書147−14(24)
カトリック年間第22主日C年 2013,9,1

 マタイ福音書22章に多少似ている話がある。安息日にパリサイ派の指導者がイエスを食事に招いた。
イエスのするとこを咎めるのが目的だ。やることが汚いねえ。イエスは水腫をわずらった病人を治し、その後の食事の際に3つの譬話を行う。
 譬話の結論は、救われる人はだれかといえば、当時の社会の中で疎外されていた貧乏人や障がい者や異邦人たちだ、という趣旨の譬話である。
 1つ目と2つ目の譬話は、パリサイ派の指導者が招待した人たちが上席を選んで坐るのに気づいてイエスは言う。
1つ目の譬えの結論は、「すべて自らを高めるものは低くされ、自らを低めるものは高くされるのだ。」
 上席を選んで、さも俺様は偉いんだぞと、ふんぞり返るようなヤツは、救われるものかということだね。
 2つ目の譬えの結論は、「貧乏人や障がい者を招きなさい。そういう者は返礼することができないのだから幸いなのだ。」
 共同訳は「その人たちはお返しがきないから、あなたは幸いだ。」と訳されていてちょっと違うなあ。こ
れだと、幸いなのは招待したパリサイ派の指導者になる。
 パリサイ派の指導者は早く悔い改めて救われなさいと言っていると考えるのか、パリサイ派の指導者になるような者は悔い改めるはずはないでしょ、と考えるかだね。
 3つ目の譬話は、同席していた一人がイエスに「神の国で食事をする者は幸いです。」と言ったことに対して語ったもの。
、もともと招待していた人々はあれこれ理由をつけて招待を断ったので、貧乏人や障がい者を代わりに招待し、さらに条件を付けずにだれでも良いからと招いた上で、こう結論する。
「もともと招待しておいたあの者達は誰も私の晩餐を味わうことがないのだ。」