第二コリント書を考える(第4章)

 聖書からの引用は、口語訳からのもの。田川建三訳、尾山令仁訳の二つの訳は好対照で読み比べている。

*第4章には、名句となる言葉がちりばめられている。こういうところばかりだと、聖パウロと十分によばれるだろうね。

1 このようにわたしたちは、あわれみを受けてこの務についているのだから、落胆せずに、
2 恥ずべき隠れたことを捨て去り、悪巧みによって歩かず、神の言を曲げず、真理を明らかにし、神のみまえに、すべての人の良心に自分を推薦するのである。

*パウロの言葉は曖昧で何を言っているのかよく分からないところが多い。田川注では、パウロはあれこれの批評に関して、自分の信じていることを恥ずかしがって隠したりしないぞ、とある。自信家のパウロだったらそうだね。

3 もしわたしたちの福音がおおわれているなら、滅びる者どもにとっておおわれているのである。
4 彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである。

*この世の神、と言う箇所で、パウロが2元論の神観、この世の神と、あの世の神というように、が顔を出している。

5 しかし、わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える。わたしたち自身は、ただイエスのために働くあなたがたの僕にすぎない。
6 「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。
7 しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。
8 わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。
9 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。
10 いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。
11 わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。
12 こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである。

*イエスの死を身に負うことによって永遠の命にあずかるということだ。このためにパウロは苦労して福音宣教を行っていると言いたいわけだ。

13 「わたしは信じた。それゆえに語った」としるしてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じている。それゆえに語るのである。
14 それは、主イエスをよみがえらせたかたが、わたしたちをもイエスと共によみがえらせ、そして、あなたがたと共にみまえに立たせて下さることを、知っているからである。
15 すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。
16 だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。
17 なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
18 わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。


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