第二コリント書を考える(第1章)

 聖書からの引用は、口語訳からのもの。田川建三訳、尾山令仁訳の二つの訳は好対照で読み比べている。


*55年か56年にこの書簡が書かれたと言われている。


1 神の御旨によりキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟テモテとから、コリントにある神の教会、ならびにアカヤ全土にいるすべての聖徒たちへ。
2 わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。
4 神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。
5 それは、キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、わたしたちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれているからである。
6 わたしたちが患難に会うなら、それはあなたがたの慰めと救とのためであり、慰めを受けるなら、それはあなたがたの慰めのためであって、その慰めは、わたしたちが受けているのと同じ苦難に耐えさせる力となるのである。
7 だから、あなたがたに対していだいているわたしたちの望みは、動くことがない。あなたがたが、わたしたちと共に苦難にあずかっているように、慰めにも共にあずかっていることを知っているからである。

*パウロがコリント教会の信者への呼びかけの部分である。なかなか感動的な呼びかけである。

8 兄弟たちよ。わたしたちがアジヤで会った患難を、知らずにいてもらいたくない。わたしたちは極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしまい、
9 心のうちで死を覚悟し、自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至った。
10 神はこのような死の危険から、わたしたちを救い出して下さった、また救い出して下さるであろう。わたしたちは、神が今後も救い出して下さることを望んでいる。
*田川注によれば、エフェソスでの事件のことを指している。

11 そして、あなたがたもまた祈をもって、ともどもに、わたしたちを助けてくれるであろう。これは多くの人々の願いによりわたしたちに賜わった恵みについて、多くの人が感謝をささげるようになるためである。
12 さて、わたしたちがこの世で、ことにあなたがたに対し、人間の知恵によってではなく神の恵みによって、神の神聖と真実とによって行動してきたことは、実にわたしたちの誇であって、良心のあかしするところである。
13 わたしたちが書いていることは、あなたがたが読んで理解できないことではない。それを完全に理解してくれるように、わたしは希望する。
14 すでにある程度わたしたちを理解してくれているとおり、わたしたちの主イエスの日には、あなたがたがわたしたちの誇であるように、わたしたちもあなたがたの誇なのである。

*主イエスの日とは、最後の審判の日のことで、その日には、コリント教会の信者はパウロの誇りとなり、ぱうろはコリント教会の信者の誇りとなることだ。自負心あふれるというべきか、うぬぼれと言うべきか。

15 この確信をもって、わたしたちはもう一度恵みを得させたいので、まずあなたがたの所に行き、
16 それからそちらを通ってマケドニヤにおもむき、そして再びマケドニヤからあなたがたの所に帰り、あなたがたの見送りを受けてユダヤに行く計画を立てたのである。
17 この計画を立てたのは、軽率なことであったであろうか。それとも、自分の計画を肉の思いによって計画したため、わたしの「しかり、しかり」が同時に「否、否」であったのだろうか。
18 神の真実にかけて言うが、あなたがたに対するわたしの言葉は、「しかり」と同時に、「否」というようなものではない。
19 なぜなら、わたしたち、すなわち、わたしとシルワノとテモテとが、あなたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「しかり」となると同時に「否」となったのではない。そうではなく、「しかり」がイエスにおいて実現されたのである。
20 なぜなら、神の約束はことごとく、彼において「しかり」となったからである。だから、わたしたちは、彼によって「アァメン」と唱えて、神に栄光を帰するのである。

*パウロは何を言っているのかよく分からない。こんどこそ、コリント教会へ行きますよということだろう。

21 あなたがたと共にわたしたちを、キリストのうちに堅くささえ、油をそそいで下さったのは、神である。
22 神はまた、わたしたちに証印をおし、その保証として、わたしたちの心に御霊を賜わったのである。

*21節だが、新共同訳では、「わたしたちとあなたがととキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です」田川訳も同様な訳である。尾山訳は「私たちを、あなたがたといっしょに忠実なクリスチャンとしてくださり、神の福音を宣べ伝える働きに任命してくださったのは神である」
 となっている。「油を注がれた者」とは「キリスト」のことを普通は指している。パウロはキリストと同様な存在だと言っていることになる。
 それとも信者まで含めてすべてが「キリスト」と同様だということなのか。尾山訳のように、もうちょっと軽い意味なのか。

23 わたしは自分の魂をかけ、神を証人に呼び求めて言うが、わたしがコリントに行かないでいるのは、あなたがたに対して寛大でありたいためである。
24 わたしたちは、あなたがたの信仰を支配する者ではなく、あなたがたの喜びのために共に働いている者にすぎない。あなたがたは、信仰に堅く立っているからである。

*「寛大でありたい」ということは、尾山訳のように「きびしくしかりつけて悲しませたくないからだ。」ということだ。本当は、びしばし叱ってやるつもりだということだ。

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