第一コリント書を考える(第9章)

 聖書からの引用は、口語訳からのもの。田川建三訳、尾山令仁訳の二つの訳は好対照で読み比べている。


*第9章は、パウロの本音がよりはっきりとでている。そして恩ぎせがましいパウロの姿がよく分かる。こういう教祖は人間らしくて良いと考えるか、鼻持ちならない人間と考えるか。

9:1わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主にあるわたしの働きの実ではないか。
9:2わたしは、ほかの人に対しては使徒でないとしても、あなたがたには使徒である。あなたがたが主にあることは、わたしの使徒職の印なのである。

*コリント教会の信者は、パウロが使徒としての証明と成果である、分かるねえというわけだ。

9:3わたしの批判者たちに対する弁明は、これである。 9:4わたしたちには、飲み食いをする権利がないのか。 9:5わたしたちには、ほかの使徒たちや主の兄弟たちやケパのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのか。
9:6それとも、わたしとバルナバとだけには、労働をせずにいる権利がないのか。
9:7いったい、自分で費用を出して軍隊に加わる者があろうか。ぶどう畑を作っていて、その実を食べない者があろうか。また、羊を飼っていて、その乳を飲まない者があろうか。

*パウロとバルナバ以外はみんな、生活費を得るために働かず、信者の献金で生活しているぞ。ケパ(ペテロ)などは妻まで連れているぞ、その生活費も献金でまかなわれているぞ。だから俺だって・・とパウロは言いたいのか。

9:8わたしは、人間の考えでこう言うのではない。律法もまた、そのように言っているではないか。
9:9すなわち、モーセの律法に、「穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない」と書いてある。神は、牛のことを心にかけておられるのだろうか。
9:10それとも、もっぱら、わたしたちのために言っておられるのか。もちろん、それはわたしたちのためにしるされたのである。すなわち、耕す者は望みをもって耕し、穀物をこなす者は、その分け前をもらう望みをもってこなすのである。
9:11もしわたしたちが、あなたがたのために霊のものをまいたのなら、肉のものをあなたがたから刈りとるのは、行き過ぎだろうか。

*パウロは、よりにもよって旧約の律法を持ち出して、信者の献金で生活することを正当化するとはねえ。

9:12もしほかの人々が、あなたがたに対するこの権利にあずかっているとすれば、わたしたちはなおさらのことではないか。しかしわたしたちは、この権利を利用せず、かえってキリストの福音の妨げにならないようにと、すべてのことを忍んでいる。

*パウロも信者からの献金で生活したいけど、我慢しているのだというわけだ。

9:13あなたがたは、宮仕えをしている人たちは宮から下がる物を食べ、祭壇に奉仕している人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかることを、知らないのか。
9:14それと同様に、主は、福音を宣べ伝えている者たちが福音によって生活すべきことを、定められたのである。

*やっぱり信者からの献金で生活したいのだ。この本音がちらちら出てくるところはいかにもパウロ。

9:15しかしわたしは、これらの権利を一つも利用しなかった。また、自分がそうしてもらいたいから、このように書くのではない。そうされるよりは、死ぬ方がましである。わたしのこの誇は、何者にも奪い去られてはならないのだ。
9:16わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇にはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである。
9:17進んでそれをすれば、報酬を受けるであろう。しかし、進んでしないとしても、それは、わたしにゆだねられた務なのである。
9:18それでは、その報酬はなんであるか。福音を宣べ伝えるのにそれを無代価で提供し、わたしが宣教者として持つ権利を利用しないことである。

*自分の生活は自分でささえるのが当たり前だという感覚がパウロにはどうもないようだ。信者たちの献金で生活せずに、生活費を稼いだことを誇りとして、コリント教会の信者たちに恩をきせようとしている。
 パウロは福音宣教は当然のことなので誇りにはならないが、無報酬でやっていることが誇りだよというわけだ。
 ボランティア精神でやっていることが誇りだというわけだ。金儲けのためにやっているのと違うぞというわけだ。

9:19わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。
9:20ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。
9:21律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。
9:22弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。
9:23福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。

*福音宣教のためなら、なんだってするというのはいかがなものか。パウロはキリストの律法の中にあるのだろう。もっともパウロの言うキリストの律法なるものと、ユダヤの律法なるものとの違いは割礼問題ぐらいだと思えてならないが。

9:24あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい。
9:25しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。
9:26そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。
9:27すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない。

*競技場での譬えはいかがなものか。賞を得る者はひとりだけだとしたら、それ以外の者は脱落者ということになる。パウロはたとえ話が実に下手だ。


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