第一コリント書を考える(第8章)

 聖書からの引用は、口語訳からのもの。田川建三訳、尾山令仁訳の二つの訳は好対照で読み比べている。

*第8章は、パウロの建前と本音がよく分かる部分だ。パウロという人物のいやらしさがよく分かる部分だ。


1 偶像への供え物について答えると、「わたしたちはみな知識を持っている」ことは、わかっている。しかし、知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める。
2 もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない。
3 しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのである。
4 さて、偶像への供え物を食べることについては、わたしたちは、偶像なるものは実際は世に存在しないこと、また、唯一の神のほかには神がないことを、知っている。
5 というのは、たとい神々といわれるものが、あるいは天に、あるいは地にあるとしても、そして、多くの神、多くの主があるようではあるが、
6 わたしたちには、父なる唯一の神のみがいますのである。万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する。また、唯一の主イエス・キリストのみがいますのである。万物はこの主により、わたしたちもこの主によっている。

*偶像に供えられた肉を食べるのか食べないのかという具体的な問題である。
 パウロは、建前をまず述べる。ユダヤ教は異教の神殿に供えられた肉を食べることを禁止した。パウロは建前上では、ユダヤ律法主義を脱していることにしているから、異教の神々は本当は存在しない、故に存在しない神々に供えられた肉は汚れていない、だからどのような肉を食べてもかまわない、としている。

7 しかし、この知識をすべての人が持っているのではない。ある人々は、偶像についての、これまでの習慣上、偶像への供え物として、それを食べるが、彼らの良心が、弱いために汚されるのである。
8 食物は、わたしたちを神に導くものではない。食べなくても損はないし、食べても益にはならない。
9 しかし、あなたがたのこの自由が、弱い者たちのつまずきにならないように、気をつけなさい。

*ところが、信者の中には、このことが分かってないものがいる。それに、食べても食べなくても、どちらでも良いではないか。各人の好きなようにさせれば良いではないか。と、建前をずらし始める。まあ、ここまではよいのだが、次に、このことが分かっていない意志が弱く、理解力も弱い者たちのことを考えてあげてなさい。 と、さらに建前をずらすのだ。

10 なぜなら、ある人が、知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのを見た場合、その人の良心が弱いため、それに「教育されて」、偶像への供え物を食べるようにならないだろうか。
11 するとその弱い人は、あなたの知識によって滅びることになる。この弱い兄弟のためにも、キリストは死なれたのである。
12 このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、その弱い良心を痛めるのは、キリストに対して罪を犯すことなのである。

*と、ここで論理を飛躍させる。クリスチャンが偶像の宮で(尾山訳では、異教の神殿の食堂で)で肉を食べているのを、意志が弱く、理解力も弱い者が見たらどうなる(そんな状況はありえない)弱い者も肉を食べるようになるだろう(弱い者はやっぱり食べるようにはならない)。するとこの弱い人は滅びることになる。(たとえ食べても滅びるわけはないだろ)だから、あなたは肉を食べることは、罪を犯すことになる。(この論理展開は無茶苦茶)

13 だから、もし食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは永久に、断じて肉を食べることはしない。

*つまりパウロは何が言いたいのか。異教に供えられた可能性のあるような肉は食べるなよ、俺は食べないから(これがパウロの本音)

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