第一コリント書を考える(第6章)

 聖書からの引用は、口語訳からのもの。田川建三訳、尾山令仁訳の二つの訳は好対照で読み比べている。


*第6章は、信者同士のささいなもめ事から、今日の民事訴訟に当たるものまで、パウロはひっくるめて論じている。

1 あなたがたの中のひとりが、仲間の者と何か争いを起した場合、それを聖徒に訴えないで、正しくない者に訴え出るようなことをするのか。
2 それとも、聖徒は世をさばくものであることを、あなたがたは知らないのか。そして、世があなたがたによってさばかれるべきであるのに、きわめて小さい事件でもさばく力がないのか。
3 あなたがたは知らないのか、わたしたちは御使をさえさばく者である。ましてこの世の事件などは、いうまでもないではないか。
4 それだのに、この世の事件が起ると、教会で軽んじられている人たちを、裁判の席につかせるのか。
5 わたしがこう言うのは、あなたがたをはずかしめるためである。いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することができるほどの知者は、ひとりもいないのか。
6 しかるに、兄弟が兄弟を訴え、しかもそれを不信者の前に持ち出すのか。
7 そもそも、互に訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだ。なぜ、むしろ不義を受けないのか。なぜ、むしろだまされていないのか。
8 しかるに、あなたがたは不義を働き、だまし取り、しかも兄弟に対してそうしているのである。

*聖徒とはキリスト教信者で、正しくない者とは非キリスト教信者のことを指している。信者間のささいなもめ事は信者で解決しなさいという程度なら、なるほどということになるだろう。パウロが生きた時代はローマ帝国の法の基づいていろいろ裁判が行われたはずで、民事であれ、刑事であれ、この世の事件の裁判が行われていた。正しくない者、教会で軽んじられている者、不信者である裁判官、つまり非キリスト教信者には訴えに行くな、とパウロは言っている。やれやれ。

9 それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、
10 貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。
11 あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである。

*第5章の説教の繰り返しだ。コリント教会の信者たちの中にいた不品行な者たちも、赦されているのだ、赦されているのだから、やってはいけないぞというわけだ。

12 すべてのことは、わたしに許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは、わたしに許されている。しかし、わたしは何ものにも支配されることはない。
13 食物は腹のため、腹は食物のためである。しかし神は、それもこれも滅ぼすであろう。からだは不品行のためではなく、主のためであり、主はからだのためである。
*わたしというのは、パウロのことだ。パウロは何をやってもいいのだ。何を言っても良いのだ。パウロは許されているのだからという、まさしく教祖の論理だ。

14 そして、神は主をよみがえらせたが、その力で、わたしたちをもよみがえらせて下さるであろう。
15 あなたがたは自分のからだがキリストの肢体であることを、知らないのか。それだのに、キリストの肢体を取って遊女の肢体としてよいのか。断じていけない。
16 それとも、遊女につく者はそれと一つのからだになることを、知らないのか。「ふたりの者は一体となるべきである」とあるからである。
17 しかし主につく者は、主と一つの霊になるのである。
*パウロは売春婦をまず人間扱いしていない。いわば汚れた存在として排除せよと言っている。

18 不品行を避けなさい。人の犯すすべての罪は、からだの外にある。しかし不品行をする者は、自分のからだに対して罪を犯すのである。
19 あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。
20 あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。

*不品行をしてはいけない、身体を清く保って、神の聖なる身体にしなさいという説教で、第6章は締めくくられるが、説得力はあるのかね。

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