第一コリント書を考える(第4章)

 聖書からの引用は、口語訳からのもの。田川建三訳、尾山令仁訳の二つの訳は好対照で読み比べている。

*第5章は、パウロが怒り狂っていることがよく分かる部分である。どれだけ苦労して福音宣教をやってきたか、分かっているんかという怒りだ。

1 このようなわけだから、人はわたしたちを、キリストに仕える者、神の奥義を管理している者と見るがよい。
2 この場合、管理者に要求されているのは、忠実であることである。
3 わたしはあなたがたにさばかれたり、人間の裁判にかけられたりしても、なんら意に介しない。いや、わたしは自分をさばくこともしない。
4 わたしは自ら省みて、なんらやましいことはないが、それで義とされているわけではない。わたしをさばくかたは、主である。
5 だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう。

*パウロは自分のことを神の奥義の管理者と呼んでいる。コリント教会の信者は、神の奥義の管理者であるパウロを批判するな、文句を言うなというわけだ。パウロは自己批判さえもしないぞ、パウロを裁くことができるのは神だけだ。

6 兄弟たちよ。これらのことをわたし自身とアポロとに当てはめて言って聞かせたが、それはあなたがたが、わたしたちを例にとって、「しるされている定めを越えない」ことを学び、ひとりの人をあがめ、ほかの人を見さげて高ぶることのないためである。
7 いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。

*「しるされている定めを越えない」ことであるが、これはパウロがコリント教会の信者に書いた手紙のことだ。パウロが書いたことを守っておればよいのだというわけだ。一人の人をあがめ云々は、パウロに反対するような人の言うことを聞くなと言うことだね。君たちは、神の奥義の管理者であるパウロのおかげで偉くなったのだろうとは、さすが教祖である。

8 あなたがたは、すでに満腹しているのだ。すでに富み栄えているのだ。わたしたちを差しおいて、王になっているのだ。ああ、王になっていてくれたらと思う。そうであったなら、わたしたちも、あなたがたと共に王になれたであろう。

*「王になる」ということだが、田川訳の注には、宗教的境地には5段階があるという。
第1段階・・探すと見つかる段階
第2段階・・動揺する段階
第3段階・・驚く段階
第4段階・・王になる段階
第5段階・・もはやあらゆる動きを寂滅する静かな休みの段階
 コリント教会信者への皮肉のようだ。

9 わたしはこう考える。神はわたしたち使徒を死刑囚のように、最後に出場する者として引き出し、こうしてわたしたちは、全世界に、天使にも人々にも見せ物にされたのだ。
10 わたしたちはキリストのゆえに愚かな者となり、あなたがたはキリストにあって賢い者となっている。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊ばれ、わたしたちは卑しめられている。
11 今の今まで、わたしたちは飢え、かわき、裸にされ、打たれ、宿なしであり、
12 苦労して自分の手で働いている。はずかしめられては祝福し、迫害されては耐え忍び、
13 ののしられては優しい言葉をかけている。わたしたちは今に至るまで、この世のちりのように、人間のくずのようにされている。

*パウロの恩ぎせがましい嘆きが綴られている。パウロは神によって一番苦労する任務をさせられている。「苦労して自分で稼いでいる」みんなの献金で生活しているわけではないぞ、というわけだ。わざわざ書くと言うことは、献金で生活保障をするのが当たり前だという意識があるのかねえ。

14 わたしがこのようなことを書くのは、あなたがたをはずかしめるためではなく、むしろ、わたしの愛児としてさとすためである。
15 たといあなたがたに、キリストにある養育掛が一万人あったとしても、父が多くあるのではない。キリスト・イエスにあって、福音によりあなたがたを生んだのは、わたしなのである。
16 そこで、あなたがたに勧める。わたしにならう者となりなさい。

*パウロがみんなを導いてきたのだぞ、パウロを見習え、分かったかというわけだ。これぞ教祖のお言葉だね。

17 このことのために、わたしは主にあって愛する忠実なわたしの子テモテを、あなたがたの所につかわした。彼は、キリスト・イエスにおけるわたしの生活のしかたを、わたしが至る所の教会で教えているとおりに、あなたがたに思い起させてくれるであろう。
18 しかしある人々は、わたしがあなたがたの所に来ることはあるまいとみて、高ぶっているということである。

*パウロの弟子をつかわすぞ、それはパウロの教えを思い起こさせるためだと言っている。

19 しかし主のみこころであれば、わたしはすぐにでもあなたがたの所に行って、高ぶっている者たちの言葉ではなく、その力を見せてもらおう。
20 神の国は言葉ではなく、力である。
21 あなたがたは、どちらを望むのか。わたしがむちをもって、あなたがたの所に行くことか、それとも、愛と柔和な心とをもって行くことであるか。

*パウロに反対している者たちの力(奇跡的な行為や神の霊に取りつかれている姿等の実際の行動)を見せてもらいたいものだ。最後は、鞭を持っていくぞ、それでもよいかなどとは、これでは脅迫文だね。



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