第一コリント書を考える(第2章)

 聖書からの引用は、口語訳からのもの。田川建三訳、尾山令仁訳の二つの訳は好対照で読み比べている。


 田川訳の注によれば、第2章で、パウロは、
(6,7節)、自分を完全な者で、神の知恵を語る者と宣言している。
(11,12節)神を認識した人間は一人のいなかったが、自分は神の霊を受けて神を認識した。
(15節)私の言葉は神の霊の言葉である。私は霊の人であるから一切を正しく判断できる。霊の人である私を批判することなどできない。
(16節)神の叡智を知って神を教えることのできる人間はいない。
 と語っている。結論は、パウロはキリストの叡智を持っているのだから、私の言葉を神の言葉としてコリント教会のみんなは受け入れなさいというのが、第2章の内容だとなる。
 尾山訳だと、傲慢さはなくなり、一般的な説教という感じになる。

1 兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。
2 なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。

*イエスについては、十字架の死と復活以外のことは知る必要はない、生前のイエスの言動などは知らなくて良いとパウロは言っている。

4 そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。
*パウロが行った宣教は、神の霊がついているという宣伝と奇跡などであった。

5 それは、あなたがたの信仰が人に知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった。
6 しかしわたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語る。この知恵は、この世の者の知恵ではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。
7 むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。

*わたしたちと言っているが、具体的にはパウロのことであり、パウロは円熟している者であり、神の知恵を持っていると言っている。

8 この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。

*神の知恵を持った支配者はいなかった。パウロは世の支配者以上の者だというわけだ。

11 いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。
12 ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである。
13 この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである。

*わたしたちといっているが、この場合はパウロのこと。
神の思い→神の御霊が知っている→パウロは神の御霊を受けている→パウロが言うことは神の御霊の言葉である。

14 生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。

*田川訳の注によれば、パウロは人間を3種類に分けているとのことだ。肉という原理に支配されている人(救われない人)、霊の原理に支配されている人(救われる人)、生まれながらの人。そして生まれながらの人は、神の御霊の賜り物を受け入れない愚か者である。

15 しかし、霊の人は、すべてのものを判断するが、自分自身はだれからも判断されることはない。
16 「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。

*パウロは霊の原理に支配されて救われる人である。パウロの判断はいつも正しいので、批判されることはない。パウロは、自分こそがイエスの思いが分かり、教えることのできるのは自分だと言っている。16節のわたしたちというのは、パウロのことを指している。わたしたちを字句通り「私たち」とするなら、誰がイエスの思いを教えることができるか、みんなは知っているよね、という意味になる。
 どちらにしても、まさしく教祖パウロここにあり、というわけだ。

 (第1章へ)        (第3章へ)