第一コリント書を考える(第15章)

 聖書からの引用は、口語訳からのもの。田川建三訳、尾山令仁訳の二つの訳は好対照で読み比べている。

*第15章は、キリストの復活を取り扱っている。

1 兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起してもらいたい。
2 もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。

*さすが教祖パウロ、私の言うとおりしておれば救われると言っている。イエスが生前何を言ったとか、何をしたとか関係というわけだ。

3 わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、
4 そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、
5 ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。
6 そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。
7 そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、
8 そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。

*旧約聖書に書いてあるとおり、イエスは死んで復活した。イエスを直接知らない者で、復活したイエスが現れたのはパウロだけだ。パウロで最後だよ。これからは、ほかの誰にも現れないよ、とパウロは言っている。

9 実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者である。
10 しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。
11 とにかく、わたしにせよ彼らにせよ、そのように、わたしたちは宣べ伝えており、そのように、あなたがたは信じたのである。

*パウロは、やはりユダヤ教パリサイ派であった過去について弁明している。弁明せざるを得ない過去があり、あれこれと言われ続けたのだろう。

12 さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。
13 もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。
14 もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。
15 すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。
16 もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。
17 もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。
18 そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。
19 もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。
*イエスは復活しなかったという批判が強かったのだ。そんなはずはないやろうというわけだ。

20 しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。
21 それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。

*さっきも言ったように、最後にパウロの前にも復活したイエスが現れたのだから、イエスは復活したのは事実だ。ただし、もう現れることはないので、後は信じてもらうほかないと言っている。

22 アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。
23 ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、
24 それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。
25 なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。
26 最後の敵として滅ぼされるのが、死である。

*パウロはもうすぐ自分が生きているうちにイエスの再臨があると考えている。そして終末が、来ると考えている。終末時に、イエスは今あるすべての権威、権力を討ち滅ぼして・・とあるが、パウロは生きているうちにそうなると信じていたのだろう。

27 「神は万物を彼の足もとに従わせた」からである。ところが、万物を従わせたと言われる時、万物を従わせたかたがそれに含まれていないことは、明らかである。
28 そして、万物が神に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたそのかたに従うであろう。それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。
29 そうでないとすれば、死者のためにバプテスマを受ける人々は、なぜそれをするのだろうか。もし死者が全くよみがえらないとすれば、なぜ人々が死者のためにバプテスマを受けるのか。
30 また、なんのために、わたしたちはいつも危険を冒しているのか。
31 兄弟たちよ。わたしたちの主キリスト・イエスにあって、わたしがあなたがたにつき持っている誇にかけて言うが、わたしは日々死んでいるのである。
32 もし、わたしが人間の考えによってエペソで獣と戦ったとすれば、それはなんの役に立つのか。もし死人がよみがえらないのなら、「わたしたちは飲み食いしようではないか。あすもわからぬいのちなのだ」。

*パウロはイエスの再臨、終末を信じてはいるが、不安になるのだ。そうでないとすればとか、何のためにとか、もしとか、いうようなことは書かないだろう。正直と言えば正直だ。


33 まちがってはいけない。「悪い交わりは、良いならわしをそこなう」。
34 目ざめて身を正し、罪を犯さないようにしなさい。あなたがたのうちには、神について無知な人々がいる。あなたがたをはずかしめるために、わたしはこう言うのだ。

*イエスの復活、再臨、終末を信じない人たちとはつきあうな、と言いたいわけだ。

35 しかし、ある人は言うだろう。「どんなふうにして、死人がよみがえるのか。どんなからだをして来るのか」。
36 おろかな人である。あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか。
37 また、あなたのまくのは、やがて成るべきからだをまくのではない。麦であっても、ほかの種であっても、ただの種粒にすぎない。
38 ところが、神はみこころのままに、これにからだを与え、その一つ一つの種にそれぞれのからだをお与えになる。
39 すべての肉が、同じ肉なのではない。人の肉があり、獣の肉があり、鳥の肉があり、魚の肉がある。
40 天に属するからだもあれば、地に属するからだもある。天に属するものの栄光は、地に属するものの栄光と違っている。
41 日の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光がある。また、この星とあの星との間に、栄光の差がある。
42 死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、
43 卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、
44 肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。

*復活に対する疑問に譬えなどでパウロは答えているが、説得力があるのかな。

45 聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。
46 最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである。
47 第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る。
48 この土に属する人に、土に属している人々は等しく、この天に属する人に、天に属している人々は等しいのである。
49 すなわち、わたしたちは、土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとるであろう。

*最後のアダムとは、イエスをさしている。人間はアダムのように死ぬし、イエスのように復活することを信じなさいというわけだ。

50 兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。
51 ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。
52 というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。
53 なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。
54 この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。

*奥義の内容を教えている。世の終わりの時に響くラッパによって一瞬にして変えられるとあるが、朽ちる者(すでに死んだ者)と死ぬ者(今は生きている者)の扱いが違うのだ。今生きている者は、死ぬことなしに不死のものを着ることができるのだ。

55 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
56 死のとげは罪である。罪の力は律法である。
57 しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。
58 だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。

*旧約聖書のイザヤ書、ホセア書からの引用とのことであるが、意味がよく分からない。「死のとげは罪である。罪の力は律法である。」という部分は、尾山訳では「死を来たらせるものは罪であり、罪は律法によって明らかにされる。」とある。罪のために死ぬのだ、何が罪かは律法によるのだ、と言うわけだろうが、イエスが罪をなくしてくれたから心配するなというわけだ。


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