第一コリント書を考える(第10章)

 聖書からの引用は、口語訳からのもの。田川建三訳、尾山令仁訳の二つの訳は好対照で読み比べている。

*第10章は、旧約聖書から、あれこれ教訓を説教した後、肉食に関する問題を取り上げている。
 やっぱり食べるなと言ってはしまったが、あれこれ言い訳をしておいた方がよいと考えたのか。

13 あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。

*この言葉は、パウロの説教中で出色の言葉である。よく引用される言葉だ。

14 それだから、愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。
・・・
19 すると、なんと言ったらよいか。偶像にささげる供え物は、何か意味があるのか。また、偶像は何かほんとうにあるものか。
20 そうではない。人々が供える物は、悪霊ども、すなわち、神ならぬ者に供えるのである。わたしは、あなたがたが悪霊の仲間になることを望まない。
21 主の杯と悪霊どもの杯とを、同時に飲むことはできない。主の食卓と悪霊どもの食卓とに、同時にあずかることはできない。

*偶像礼拝禁止から、偶像への供え物を食べることの禁止へ。パウロは、ユダヤ教の神殿に捧げられて、市場へ出された肉は食べて良いが、異教徒の神殿に供えられた後、市場へ出された肉は食べてはいけないと考えている。

23 すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない。
24 だれでも、自分の益を求めないで、ほかの人の益を求めるべきである。

*途中で、これまたパウロの有名な説教の言葉がはさまれる。これらの説教はもっともなのだが、肉食問題の間にはさまれるのは違和感があるなあ。

25 すべて市場で売られている物は、いちいち良心に問うことをしないで、食べるがよい。
26 地とそれに満ちている物とは、主のものだからである。
27 もしあなたがたが、不信者のだれかに招かれて、そこに行こうと思う場合、自分の前に出される物はなんでも、いちいち良心に問うことをしないで、食べるがよい。
28 しかし、だれかがあなたがたに、これはささげ物の肉だと言ったなら、それを知らせてくれた人のために、また良心のために、食べないがよい。

*市場から買ってくる肉の由来まで分からない。分からないときは気にしないで食べよう。しかし、異教徒の神殿に捧げられた肉だと言われたら、食べないようにというわけだ。現実的な対応というか、ここまでこだわるか。

29 良心と言ったのは、自分の良心ではなく、他人の良心のことである。なぜなら、わたしの自由が、どうして他人の良心によって左右されることがあろうか。
30 もしわたしが感謝して食べる場合、その感謝する物について、どうして人のそしりを受けるわけがあろうか。
*口語訳では「良心」と訳されているが田川訳では「意識」と訳されている。他人の意識、思い、思いやりの心ぐらいの意味か。他人の意識などを配慮しても、パウロにとっては自分の自由を放棄したことにはならない、気にしないぞというわけだ。

31 だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。
32 ユダヤ人にもギリシヤ人にも神の教会にも、つまずきになってはいけない。
33 わたしもまた、何事にもすべての人に喜ばれるように努め、多くの人が救われるために、自分の益ではなく彼らの益を求めている。

*どんな肉でも気にせずにどんどん食べろと言えばよいのにね。

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