第一コリント書を考える(第1章)

 聖書からの引用は、口語訳からのもの。田川建三訳、尾山令仁訳の二つの訳は好対照で読み比べている。


*この書簡は、エフエソ滞在中の55年ないし56年にコリント教会の信者あてに書かれた。パウロは、バリバリのユダヤ教律法主義者だったということもあり、異邦人伝道にさいしても、その残りかすが払拭されてはいなかったと思われる。キリスト教的律法主義(?)ともいうべきものをうちだしたいのだが、さりとてそうはならず、教祖パウロの悩みが感じられる書簡である。

1 神の御旨により召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、

*教祖パウロらしい挨拶だ。私は神によって使徒になったという宣言だ。キリストによる12使徒の弟子でもないと意味だ。良い意味でるなら、みんな神によって使徒にされているということか。

7 こうして、あなたがたは恵みの賜物にいささかも欠けることがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れるのを待ち望んでいる。
8 主もまた、あなたがたを最後まで堅くささえて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、責められるところのない者にして下さるであろう。

*パウロは、最後の審判が今すぐにでも起きると考えていた。審判を行うのは裁判官であるイエスである。堅くささえる、責められるところのない者にする、というと裁判官が手心を加えてくれるという意味になるね。または、弁護士兼裁判官だから心配するなという意味か。

10 さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたに勧める。みな語ることを一つにして、お互の間に分争がないようにし、同じ心、同じ思いになって、堅く結び合っていてほしい。

*この書簡の目的が書かれている。コリント教会の中で紛争があるので、解決して欲しいというのが目的だ。

11 わたしの兄弟たちよ。実は、クロエの家の者たちから、あなたがたの間に争いがあると聞かされている。
12 はっきり言うと、あなたがたがそれぞれ、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケパに」「わたしはキリストに」と言い合っていることである。
*クロエの家の者というと、使用人、召使い、奴隷から聞かされたということだ。コリント教会では、パウロ派、アポロ派、ケパ(ペテロ)派、キリスト派、に分かれて論争しているというわけだ。キリスト派というのがよく分からないが。
 この後、パウロがバプテスマを授けた人物名が列記されているが、これらの人々がパウロ派だったというわけだ。アポロがバブテスマを授けた人々、ペテロがバプテスマを授けた人々、などなどがいたことが分かる。

17 いったい、キリストがわたしをつかわされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり、しかも知恵の言葉を用いずに宣べ伝えるためであった。それは、キリストの十字架が無力なものになってしまわないためなのである。
18 十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。

*バブテスマが目的ではなく、福音(イエスの教え)を伝えるのが目的だとパウロは言っているが、パウロの言う福音の中味と、アポロ、ケパ、その他が言う福音の中味が異なったために論争が起きているのではないのかね。

20 知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。
21 この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。

*この世の知恵を愚かにされたとは、人間の知恵はしょせんサル知恵にすぎないものにしたということだ。人間のサル知恵によっては神を知ることはできない、だから神はばかげた方法で人間を救おうとしている、とパウロは言うが、人間はアホやから、アホな方法でというが、その方法はというと、パウロは具体的には示していない。

22 ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。
23 しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、
24 召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。
25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。

*奇跡とか、知恵(知識)ではなく、十字架につけられたキリストの教えによって、救われると言いたいわけだ。

26 兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。
27 それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、
28 有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。

*コリント教会には、知識人、律法学者、貴族などの権力者がいなかったのは、神がこういった連中をやっつけるためだった。やっつけるために選ばれたのが、反対の人々だったと、パウロは言っている。

29 それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。
30 あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。
31 それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。

*神があえて選んだ理由は、自慢するような人間にならないためだというわけだ。ところが、パウロは書簡で俺は使徒だと自慢しているのだ。なんたる矛盾。

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